授業のうまい先生という表現で、どんな先生をイメージするだろうか。
きっと多くの人が、漠然と、説明がわかりやすくて、板書の綺麗な先生を
イメージするんじゃないだろうか。
ただ、ケチをつけたいわけではないのだが、
本当の意味で授業のうまい先生と、
説明がわかりやすいだけの先生は、全く別物である。
後者の先生は、とうとうと説明を進めていく。道案内なら最適だ。
「真っ直ぐ進んで突き当たったら、そこで左右に道が分かれていますが、
そこで右に進んでください。そのまま右に進んでしばらくすると、
左側に行く道がありますが、そこでは曲がらずに、
もう1本先の道を左に曲がってください…」と、
スタートからゴールまで、問題なく送り届けてくれる。
気遣いのできる先生なら、「ゆっくりでいいですよ!」
と、そんな声もプラスしてかけるかもしれない。
周辺地図が生徒の手元にあったら、さらにわかりやすいと思う。
しかし、これではゴールに行きついたという結果だけしか手に入らない。
何の疑問も持たせず、何も考えさせず、何も試させず、何の失敗もさせずに、
先生の力で、ゴールにスムーズに行きつかせただけである。
それに対して、前者の先生は、安易にゴールを示さない。
疑問を持つように、頭を使わせるように仕向ける。
途中で意図的につまずかせたり、頭の中がこんがらがるようにさせたりもする。
生徒自身にとにかく試させ、さらには失敗させる。
ゆっくりやればできることを、わざと急がせてミスを誘うこともある。
生徒の想像を、いい意味で裏切るように、どんでん返しを準備することもある。
要するに、説明のわかりやすい先生と比べて、
はるかに難解で、まどろっこしいことをさせるのだ。
自分の頭で考えるのを面倒に思う生徒、早く答えだけを知りたい生徒には、
むしろ説明のわかりにくい先生と映るかもしれない。
小学校低学年の講座を開設している塾の中には、
低学年なら誰でも教えられるだろうとでも言わんばかりに、
そういう先生をあてがうところが多い。
しかし、それでも説明をわかりやすくしておきさえすれば、
不満は出ないし、むしろありがたがられる。
その結果、頭を使わないように訓練された生徒が出来上がる。
塾に通ってそうなるのでは、本末転倒だろう。
サーパスの3年生の授業は、説明のわかりやすい授業ではない。
生徒自身に頭を使わせるし、試させる。慣れないうちは面倒かもしれない。
だが、私たちはそこに価値があると信じている。