主体的について、再度、毒を吐く

先生然り、親然り。大人にとって助かる子どもの「主体的」が、
自分から机に向かって勉強してくれたり、
部屋が散らかっていたら片付けてくれたり、
何か頼みごとをしても、嫌な顔一つせずやってくれたり、
あるいは、それをいちいち頼まなくても、気付いて動いてくれたり…
ということであったら、もしかすると危険である。

もちろん、こういうことを進んでしてくれる人がいたら、
大人の社会でも大いに助かることが多いと思うけれども。
しかし、こんなものは「主体的」かどうかも怪しいところだ。
本音の部分では、ただ、大人にとって都合よく動いてくれている便利屋を
「主体的」と言っているに過ぎないのではないか。

「主体的」に学習に取り組む態度が、「空気を読んで」学習に取り組む態度
「皆と足並み揃えて」学習に取り組む態度のことを意味するのだとしたら、
勉強はつまらないものになってしまう。

少々、蛇足ではあるが、
学校で教わっていない漢字は、自分の名前を書くときでさえ使用禁止!
そういう話を聞くと、なんで!?と驚かされる。
学校で教わっていない逆上がりやクロール、リフティングができるのは、
称賛の対象になったり、授業内での見本になったりするのに…である。

 

要は、この新しい評価の仕方が、
先生の言うことを聞かせるために都合がいいというだけの、
恣意的なものになったら怖いという話である。
特別何も悪いことをしていないのに、先生に好かれず、
不遇の1年を過ごしたという経験のある人もいると思うけれど、
先生の好みの生徒だけの評価が高くなるとしたら、
まさに、そのために出来上がった制度なんじゃないかと疑ってしまう。

 

また、好きで得意な科目に、心から楽しんで取り組んでいる態度と、
嫌いで苦手な科目に、全く楽しめないのに頑張って取り組む態度と、
どちらも「主体的」だと思うけれど、
それだって、後者がきちんと評価してもらえるかはわからない。
そもそも「主体的」というのは、評価しにくいものだと思う。

さらには、少々心配し過ぎかもしれないが、
大人にとって都合のいいだけの「主体的」な態度を身に着けてしまったら、
本当の意味での「主体性」は欠落してしまうのではないか!とさえ思う。

 

ある程度、真面目で、やるべきことをやろうとする子に対して、
「主体的に学習に取り組む態度」を身に着けさせたいのなら、
課題を出さずに、自由にできる時間、余白を与えておく方がいい。
課題を大量に出して、それをやらせるのは「主体的」とは程遠い。
量にかかわらず、課題があれば、それだけやっておけばいいと思う子も多い。

何もやっていないように見える子の方が、すでに「主体的」なのかもしれない。