小テストの採点を終えて、答案を返却する。
1問ミスで95点の子、実力を十分に発揮して85点の子、
こちらの想像以上の頑張りを見せて80点の子、努力が足りず70点の子、
頑張ってはいるけれどもまだ発展途上で40点の子、
と、色々な子がいると思って欲しい。
もしこのテスト後に、先生が注意したり、叱ったりすることがあるとすれば、
その対象は、70点の子と95点の子である可能性が高い。
70点の子を点数だけで叱っているわけではない。
点数で叱るなら、40点の子が先だ。だが、40点の子は頑張っている。
頑張っているのに点数だけで叱ることには、教育的な価値は無い。
問題は、努力をせずに、まぁまぁな点数を取って、
まぁまぁなところで満足している70点の子の姿勢にあると考える。
また、95点の子は、たった1問ではあるけれどもミスをしたこと、
そしてそのミスに気付けなかったこと、そこへの反省を促したい。
注意することがあるとすれば、そういう意味合いがあると思う。
もちろん実際は、杓子定規にこのような対応をするわけではない。
85点の子が毎回実力通りの点数を取っているのなら、
そろそろ一皮むけて欲しい!と奮起を期待する叱咤をするかもしれないし、
80点の子が、思った以上の点数を取れたことで浮かれていたら、
ここで浮かれたらこの先にはいけないぞ!と叱るかもしれない。
あるいは、95点の子が一生懸命テスト直しをしている隣で、
80点台の子が集中していなければ、その姿勢について叱るだろう。
これら全て、大人なら、言わんとするところをわかってもらえるのではないか。
しかし、相手が精神的に子どもであれば、
なぜ叱られているかがわからないことも多い。
70点の子が精神的に子どもであれば、40点の子を贔屓していると思うだろう。
95点取れる子でも、点数が取れるだけで精神的に子どもであれば、
自分だけが目をつけられているとか、自分は嫌われていると思うかもしれない。
要は、注意や叱るという行為に価値があるかどうかは、
(もちろん、言う側の人間性や、それまでの人間関係も大いに関係するが)
受け手の精神的な成長度合いにもよるということである。
違う言い方をするなら、叱られた意味に気付ける能力があるかどうかである。
今年の5月に、卒業生を対象にアンケートを実施した。その時の
『授業について、印象に残っていることはありますか?』という質問に、
「時間を計って演習しているときに、最後の問題が難しくて
諦めて消しかすを集めていたら、えすみんに怒られたこと。」
という回答があった。
この時のことを、僕ははっきりとおぼえている。
最後の1分1秒まで戦う姿勢がなかったことと、見直し解き直しもせずに、
その時やるべきことではないことに時間を費やしていたことを
叱責したのであるが、まさかその子がおぼえているとは思っていなかった。
この子は、その後、フェリスに進学した。
この時叱らなくたって、フェリスには受かっただろう。
怒られたことを、ずっと忘れられずにいることは申し訳なく思う。
だけど、あの時、なぜそれを怒ったのかが伝わっていたのだとすると、
ちょっと嬉しい。