可能性という言葉の持つ無責任さ(長文)

可能性がある、と言われて嫌な顔をする人は、まずいない。
中学受験であれば、なおのことだろう。

 

だからこそ、可能性という言葉を使うときは、非常に神経を使うし、使わないといけないものだと思う。
(なのに、模試の合格可能性判定といったら……)

 

〇〇中学に受かる可能性があると言われたら、当然、自分達には、その選択肢があると理解する。
そして、この選択肢ありきで、色々な未来を考えるものだ。

 

では、可能性というが、その数値は?
80%?50%?それとも……

 

 

可能性を選択肢と変換できるのは果たして、何%からなのだろう?
そもそも、可能性の数値の根拠はどこにあるのだろう?

選択肢を多く持つことは悪いことではないが、全てを実現できるわけではない。
(もちろん、メジャーリーガーの大谷選手のような、規格外の超人もいるのは事実ですが、ここでは考慮しません。)

 

進学してもいいと思える志望校が4つも5つもあると、注ぐエネルギーも分散させなくてはいけなくなる。
圧倒できる実力があれば、何も考えず、力任せに合格をもぎ取れるかもしれない。

 

 

だが、そんなケースはほとんどない。

 

実力と同等か、それ以上の学校を志望校としている場合がほとんどだ。

 

そこで、大抵は、1つの軸を設定して、注力すべき学校を絞り込む必要に迫られる。

 

選択と集中、である。

 

このとき、一般的には、実力を大きく超えたチャレンジ校への対策よりも、
実力妥当校を確実に合格できるような対策を取ることが、王道とされている。

 

これを聞くと、こう思う方がいる。

「本当に志望しているチャレンジ校への対策は遅れてしまい、ますます合格できる可能性は下がってしまうのでは?」

「本当に受けたい学校があるのに、他の対策をしている場合なのだろうか?」

 

 

果たして、そうだろうか?

 

確かに、早い時期からチャレンジ校への対策を取る、という道は閉ざされるかもしれない。

だが、目的地への道が無くなったわけではない。

 

道を閉ざすと聞けば、諦めというネガティブな言葉が頭に浮かぶが、そういったものではない。

前向きで勇気のある、健全な選択なのだ、と強く言いたい。

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