知恵―ホフ先生が、「最近の子は菊も椿も知らないんだなぁ。」と言うので、
「菊は知っていて欲しいですけど、椿は難しいと思いますよ?」と返した。
椿はむしろ菊よりもその辺に咲いているのだけれど、
名前を知らない花は、ただの花でしかない。
名も無きただの花は、目に留まらないので気づきもしない。
「日銀が追加緩和を見送った」
というニュースを見せた後で、あなたはどう思うか?と聞いたとする。
しかし、「日銀」「追加」「緩和」「見送る」といった言葉を知らない人は、
何についての話か一切わからず、何の感想も持てないと思う。
強制的にニュースを見せたとしても、そうなのだから、
(ニュースを見ることを)強制されない日々の生活では、
このニュースに気づくことさえない。スルーしてしまうのである。
一方、何の話かわかる人は、この時、自分なりの感想を持つだろう。
人によっては、これからの過ごし方や日本の未来について考えるかもしれない。
同じ景色(ニュース)を見ていても、同じように見えているわけではない、
ということである。
違う例も挙げよう。
体内にある内臓の名称と、それぞれがどの位置にあるかを知っていれば、
毎日のストレスで「胃」が痛い!とか、年末年始に「肝臓」を酷使し過ぎた!
のように、痛い箇所に見当をつけられるし、必要な薬や対処法がわかる。
しかし、これらの言葉を知らなければ、全て「お腹」が痛い!になってしまって、
適切な対応を取れないかもしれない。
同じ授業を聞いても差がついてしまうのは事実である。
それを、「頭の出来が違うから!」と言ってしまったら、
広い意味では確かにその通りかもしれないけれど、
もう少し具体的に考えた時、大前提に語彙力の差がある。
語彙が貧困だと、同じ授業を聞いても、同じ情報量を受け取れないのだ。
要するに、認識することも理解することも、考えることも、
そしてまた、自分の思いや考えを人に伝えることも、
自分の語彙のレベルでしかできないということである。
ちなみに、難しい言葉だけ知っていればいいという意味ではない。
仕事でも日常会話でも、むやみにカタカナ語(英単語)を使う人がいるが、
話す相手によって言い換えができないのなら、それも語彙力が足りないと言える。
難しい言葉を使っているのに、むしろ薄っぺらい印象を与えるかもしれない。
新しい言葉との出会いを面白がれるといいと思う。
おぼえなきゃ!と思うと、正直億劫に思う人や、ちょっと抵抗がある人も、
へぇ!そんな風に使うんだ!と、楽しみながら使ってみるといい。
「今日は寒いからホットをタピりたい」
普段、僕は絶対使わない言葉だけど、ふざけて使ったらもうおぼえた。