いつもと違う視点で

勉強って何のためにするのだろう。
受験ってなんのためにあるのだろう。
この勉強、将来何の役に立つのだろう。

ヤル気のある時や、結果の出せている時は、ほとんど考えないのに、
ヤル気が下がったり、結果が出せなかったり、ただ単純に遊びたくなったりすると、
こんなことを考えるようになる。
結局、将来のことなんて、将来になってみないとわからないのだから、
自分自身を納得させられる答えなんて、考えたところで(この時には)出ない。
ただただ時間を浪費し、ますますヤル気を失うのがオチである。
そして、そんなヤル気のないところを(親や先生に)見つかると、怒られて終わり。
だから、そんなことを一丁前(いっちょまえ)に考えてる暇があったら、
ウダウダ言ってないで、やり始めちゃった方がよっぽど楽だと思う。

 

と言いながらも、大人になってから感じた勉強の意味、受験の価値、
そういったものについて、いつもとは違う視点で書いてみる。

「リトマス試験紙が何色になったって、どうでもいいじゃん!」
「そんなの知らなくたって生きていける!」
例えば、このような言葉。たまたま化学を例に挙げたけれど、
人それぞれ興味を持てないものや、おぼえるのが面倒に感じるものを、
こんな風に思っていることはありえる。
そしてそれを、できればやらずに済ませたいと思う。

しかし、大人になって、どこかの会社に勤めたとして、
たとえその時入った会社が第一志望の会社だったとしても、
自分の好きな仕事、やりたい仕事だけをやれるわけではない。
自分で会社を作って社長になったとしても、
やっぱり好きな仕事、やりたい仕事だけをやれるわけではない。

やりたくない仕事や、キツイ仕事、やりがいの無い仕事に、損な役回りの仕事…、
やろうと思っていた仕事があったのに、突然降ってわいた仕事、
前もって頼んでくれればいいのに、直前に頼まれる仕事、
にもかかわらずミスの許されない仕事、責任重大な仕事…などなど。

さらには、そういう仕事だけではなくて、
住んでいる地域の町内会の仕事、マンションの管理組合、
もし結婚して子どもが小学生になったりしたら、
PTAの仕事なんてのも舞い込んでくるかもしれない。
そしていつしか仕事量が自分のキャパシティーをオーバーするかもしれない。

しかし、「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ!」
と悪態だけついて、やらない!なんてことは、大人は許されない。
ヤル気の起きない仕事だからといって、不貞腐れてやるわけにはいかない。
期限ギリギリまで手をつけないというわけにもいかない。
優先順位をつけて、テキパキ片付けていくしかないのである。

 

受験勉強をちゃんとやらないと、こういうことができない!
とまで言うと、さすがに言い過ぎなのはわかっているが、
やりたくない勉強でも、なんだかんだやれるようになると、
大人になってから、案外こんな局面を乗り切れるかもしれない。