3つのブログを読んで、
偏差値を重視する、あるいは、偏差値にとらわれない、
どちらのスタンスの方が成功できるか?受験がうまくいくか?
もし、そんな風に考えてしまった人がいたとしたら、
その人は、やっぱり何かにとらわれてしまっているのではないかと思う。
なにをもって成功と思うかは、人それぞれ、考え方によって違うが、
偏差値の高い学校や、第一志望の学校に合格することだけが成功ではない。
むしろ、人生を成功か失敗かだけでとらえない、勝ち負けや優劣で判断しない、
そういう人生観を持った方がいいのではないか、
と、平成、令和になってからは特に思う。
仮に、受験で志望の学校に入れなかったとしても、
それを失敗と捉えるか、人生に失敗など無いと捉えるかで全然違う。
失敗だと捉えたとしても、失敗はたくさんした方がいいという考え方もある。
また、その失敗をやり直しのきかないものと考えるか、
いくらでもやり直せるものと考えるかで、その後の人生は全く違うものになる。
話は飛躍するが、例えば、受験をして志望の学校に進学したとしても、
その後、不登校になることはある。
今や、どの学校にも不登校の子はいて、決して珍しくないのだが、
こういうとき、人生を成功や失敗だとか、勝ち負けだとかで判断する人は、
視野が狭くなってしまっているから、
「そんなことでは、社会に出てやっていけないぞ」とか、
「心が弱い」「怠けている」などと言いがちだ。
そして、自分の心の中では、「何がいけなかったんだろう?」
「子育てを失敗したのかもしれない」などと思いがちだ。
だが、それも成功か失敗かで、ものごとを判断しているからではないか。
不登校の何がいけないのか。不登校のどこも失敗ではない。
コロナ禍において、無理に学校に行かなくてもいい、
勉強など、いつでもどこでもできると言っていた大人が、学校には行けと言う。
しかし、これだけネットが普及しているのだから、
学校が収容人数(キャパシティー)を気にしない時代が来るかもしれない、
その結果、各学校の定員(制限)がなくなるかもしれない。
通学しなくても、授業を受けられる時代が当たり前に来るかもしれない。
そう考えると、不登校は時代の最先端をいっているのかもしれない。
そしてまた、社会に出てやっていけないという言葉の、説得力の無さが際立つ。
これだけリモートで仕事できるようになる社会を、
今の大人は子どものころに想像できただろうか。
今想像できる社会よりも、数年後の社会はもっともっと変化しているはずだ。
今の常識は、数年後には全く通用しないかもしれない。
もっともらしいことを言っている頭のかたい大人の方が、
よっぽど先にAIに仕事を奪われるかもしれない。