あの日も僕は仕事に出ていた。
揺れの大きさと、その継続時間に、
ただごとではないものを感じて、建物から外に出た。
当時、勤務していた会社は3階建ての建物だったが、
(サーパスが開校したのは2012年の3月なので、
この時まだサーパスはこの世に存在していない。)
外から見たその建物の揺れ方は衝撃的だった。
その後、停電が長く続いたことや、
両親と連絡が取れずに不安で泣いていた子どもたちの姿は鮮明におぼえているが、
あの時、あの後のことを、段々と思い出せなくなっている。
あれから10年。
2014年のブログでは、自分にできることを続けていこうと書いておいて、
僕自身、何かしらの支援を継続できたわけではない。
3.11が近づくたびに、そこに思いを馳せたとか、
東北の物産展などがあれば、気持ち多めに買い物をしたくらいがせいぜいである。
訪れたいと思いながらも、10年間、そこを訪れることもなかった。
2010年の夏、僕は東北を車で旅していた。
初日は、内陸の松尾鉱山跡地を見学し、地熱発電が有名だった松川温泉付近を通り、
座敷わらしが出ると噂の金田一温泉に宿泊した。
二日目は、今度は海を目指して久慈市に。
久慈市は、『あまちゃん』で取り上げられた琥珀も有名だが、
国家地下石油備蓄基地や、地下にある水族館「モグランピア」も見どころである。
が、それよりなにより飯!ということで、喜多八食堂で食事(海鮮丼)をした後
(一応琥珀博物館も見学したが)、「千草」でまたすぐに食事(ラーメン)。
もうこれ以上食べられない状況になってから、リアス海岸を見に行った。
この楽しく旅した場所が、翌年、被災した。
何ができるわけでもないくせに、知らない場所でもない分、
何かできることはないかと、そんなことを思い、
しかし、現実の僕は、あの時のことを段々と忘れてしまっている。
そんな僕が、復興などと軽々しく口にするのは、違う気がする。
結局、僕は何もできないでいるし、そこに行くこともしばらくは叶わないだろう。
一昨日の朝、何気なくつけたテレビで、宮城県のアナウンサーさんが
「被災された方々は、一人ひとり色んな悲しみがある」
「復興と一言で言っても、人によって尺度が違う」
と、おっしゃっていたが、僕にできる精一杯のこととして、
その方々のところに、土足で踏み込むようなことだけはしないようにしたいと思う。
そしていつか、コロナが落ち着いた時に、また旅をしてまわりたい。