大人が試されている

新型コロナ感染者数が増える一方である。
先月出したサーパスの広告には、
緊急事態宣言は出そうもないようなことを書いたが、
(中学受験のみならず、多くの受験がおこなわれるシーズンには、
緊急事態宣言を出さないように思えたからである。
学校のカリキュラムも受験に間に合うか、瀬戸際だと思うし、
ここの予定が狂うと、就職の時期も狂うだろう。)
そうはいっても、いよいよどうにかしないといけない状況である。

 

企業にテレワーク(リモートワーク)を推奨するように、
学校や塾についても、さっさとオンラインに切り替えればいい
という意見が多い印象である。
もちろん、感染対策としては、それが一番であることはわかっている。
しかし、それに対応する気もあるし、準備も進めていくとした上で、
大人と子どもを同じように考えてよいかどうかについては、正直まだわからない。

 

大人よりも子どもの方が、ゲームや動画視聴などで、
オンラインによっぽど慣れ親しんでいる可能性はある。
だが逆に、子どもは子どものうちからそれに慣れ親しんでいるからこそ、
大人とは違った感覚でそれを捉えている可能性もある。
言い方を変えれば、大きくなってから、こういったツールと出会った大人と、
物心ついた時からそれらが身の回りにあった子どもとでは、
感じ取り方、受け入れ方が違っても不思議ではないということである。

大人は、例えば、オンライン会議に多少の物足りなさや不都合があっても、
その足りない部分を想像力で補ったり、割り切ったりして受け入れられる。
昔(子どもの頃)から存在したものではなくて、新たに登場したものなのだから、
今までできなかったことができるようになったと、加点方式で捉えることができる。
オンライン会議が少々ぎこちないものだったとしても、
対面会議の替わりになるものとして、新しい可能性をそこに見出していく。

しかし、子どもにとっては、そうではないかもしれない。
オンラインは顔を合わせることの替わりにはなれず、
全く別物、現実感の無いもの、それこそまがい物として認識されるのかもしれない。
新しい可能性を感じられるプラスの評価ではなく、
現実の劣化版やフェイクといったマイナスの評価なのかもしれない。

 

このコロナ禍で「オンライン会議は、貯金を切り崩しているようなもの」
という言葉をどこかで聞いた。オンラインでのやり取りは、
それまで(顔を合わせて)築いてきた信頼関係があってこそ成り立つものであって、
それだけでは、信頼もやがて枯渇するという意味だと捉えるならば、
直感的に、的を射ている感じがする。

大人がまだまだ、もっともっと知恵を絞らないといけない。