生徒たちが会話の中でよく口にしている、
「ウザイ」「キモイ」「アリエナイ」といった言葉が耳につきます。
これらの言葉はどこから「発生」したのかその源は特定しにくいのですが、
ただ、幅広く子供社会に蔓延しているのは確かだと言えます。
「ウザイ」は「うざったい」、「キモイ」は「気持ち悪い」が原義であると
推測されるのですが、言葉の適応範囲が私たち大人との間で
微妙にズレている点が国語教師としては興味深く、
「どんな場面でどのような相手に使うの?」と手当たり次第に尋ねてみたところ、
「なんでそんなことを聞くの」といったけげんな顔つきの生徒から、
様々な具体例を列挙して事細かに説明をする生徒まで十人十色。
どうも、「ウザイ」は相手の動作や性格に対して、
「キモイ」は相手の状態や容姿に対して使用されているようですが、
それにしても相手を傷つけてその存在までも否定してしまうこれらの表現が、
教育現場で平然と日常会話の一部として自由に闊歩(かっぽ)している状況に
驚かされました。
言葉の持つ威力が軽んじられている風潮は一体どこから来ているのでしょうか。
「和を以って貴しと為す」ために、表面上の言葉より言外の意味を探るといった、
私たち日本特有の言語文化が影響しているのでしょうか。
それとも、「やさしさ」や「思いやり」といった、相手を傷つけることのない
道徳的な言葉に対する反動なのでしょうか。
いずれにしても、子供社会で、言葉によって傷つく「他者」の存在が
蔑ろ(ないがしろ)にされていることに対して非常に心がしめつけられる
思いがいたします。
このような、子供の言語環境に対して私たちができること、
それは「対話」の必要性を語り続けていくことではないでしょうか。
対話には、まず「問い」が欠かせません。
思ったことや感じたことを気軽に発する環境を整えることがスタートラインです。
また、自分を守るためだけに他人の欠点を攻撃することに終始するのではなく、
忍耐強く友達の意見に耳を傾ける心を育むことが肝心です。
ここでようやく自分とは違った相手を尊重できるようになり、
他者との違いをはっきりと「言葉」を使って発言できるようになります。
生徒たちが、自分の使っている言葉に対し自己責任を持てるようになることは
同時に、自分以外の友達を価値ある1つの存在として尊重することに
通じるはずです。
生徒たちの活躍する舞台が、否応なしに世界規模になってくるという
未来予想図を思い描いてみますと、対話能力が殊更重要視されることは
火を見るより明らかと言えます。
「私はあなたの意見には反対だ。
しかし、あなたが意見を言う権利を私は一生かけて守り抜く」
との先人の珠玉の言葉を胸に、
対話が「アリエナイ」のが「アリエナイ」授業作りを教師の使命であると
実感しつつ、今日も熱く生徒と格闘。