議論の種(後編)〜鹿嶋真弓さんの話を聞いて〜

前回のブログの流れで、携帯電話についての問題を1つ。

携帯電話の普及で、様々なことがメールで事足りるようになった。

確かに便利で、自分も相当に利用しているが、

場面による使い分けのできる大人と、そうでない子どもとでは、

同じ扱いはできないし、してはいけないと思う。

単刀直入に言えば、

コミュニケーションの第一は面と向かって話すことであるが、

それが段々と失われてしまうのではないか。

また、顔の見えない言葉のやり取りは、

人を簡単に不安にさせ傷つけることが可能である。

その結果、イジメの始まりが今まで以上に外から発見しにくくなる。

これが怖いのだ。

自国の政治がうまくいかない時に、

外に敵を作ることは古くからおこなわれていたことだが、

現在の友達の作り方を聞いていると、それと似ている部分を感じる。

鹿嶋真弓さんの話によれば、自分の仲間を作りたいがために、

Aさんが誰か(Cさん)を標的にして「あの子、なんかキモくない?」とBさんに聞く。

そしてそこでBさんが不用意に「う、うん?」と相槌でも打とうものなら、

「BさんがCさんのことキモいって言ってた。」なんてことになる。

知らないうちにイジメの加害者になっていたり、

場合によっては逆にイジメのターゲットになっていたりする。

自分一人だけメールを送ってもらえなかったことで悩む子だっているかもしれない。

知らないうちに仲間外れになっているんじゃないかと、

自分だけが取り残されないように、先手を打って誰かを仮想敵国としておこう。

一緒になって誰かの悪口を言っていれば、自分は孤立しないで済む。

こんなことが日常的におこなわれていると聞くと、悲しくてならない。

今のご時世で携帯電話を禁止にすればいいとは思わないが、

「みんな持ってる」

という魔法のコトバに乗せられて、携帯をただ与えるのは危険である。

もちろんどの家庭でも、携帯に色々な制限をかけたり、

使い方についても話してあったりしているとは思うが、

顔の見えない文字のやり取りが持つ危険性について、

無防備あるいは無頓着であって欲しくないと、心から思う。