勉強のみならず、何をするにも、ある程度の『几帳面さ』は必要だと思う。
自分らしく、好きに(そして楽に)生きていたいと思うような人なら、
几帳面になるよりもルーズである方が生きやすいかもしれないが、
少なくとも、受験や、何かしらのハードルを乗り越えようと思ったときには、
几帳面0(%)のルーズ100(%)だったら、さすがに厳しいと思う。
ここでは、その人の個性や特性によって、
どうやってもできないレベルのものについて言及したいのではない。
やろうと意識すればできないことはないのに、
面倒くさがって適当にやってしまう習性を、
あるいは、そんなことどうだっていいじゃん!で済ましてしまう性格を、
そのまま放置しておいたら、そりゃぁ何時間机に向かったって
勉強が(本当の意味で)できるようにはなりませんぜ!という話である。
その昔、国語のテストで、問題用紙に書かれた数行の文章を、
解答用紙にただ写すだけの問題が出題された。しかも慶應の入試でである。
正答率が何%だったのか、非常に興味があるが、
慶應を受けにくるレベルでも、100%ではなかったのだろうと推測する。
文字を正しく認識して、正確に書き写すということが求められているのだが、
とはいえ、「それのどこが難しいの?」と大人は不思議に思うかもしれない。
だがこの問題は、今の子どもたちの世代で出題されたものではなく、
今もう親になった世代が子どもだった頃に出題されたものである。
要するに、今も昔も、こういうところで「差」がつくのである。
一字一句を正確に読もうとせず、大体の雰囲気で適当に読んできたせいで、
その訓練が(高学年になるまでに)足りておらず、
正確に読もうとしても読めなくなっている子がいる。
丁寧に書かないのも、式を書かないのもデフォ!(それが普通)
答えだけ書くのが俺様流!とばかりに過ごしてきたことで、
式を書こうとしても、何をどうやって書いていいかわからない子もいる。
こういう子が、これから心を入れ替えて取り組むにしても、
自分が今までやってきていないことをやるのだから、そこには大変な苦労が待ち受ける。
正しいやり方で勉強に取り組んできた子なら、考え方や取り組み方がわかっている分、
見たことのある問題なら、ものの数分で解き終わり、
初見の問題でも、読んで考えたらその場でできる!という風になっていくが、
正しいやり方も、先生や親からのアドバイスも受け入れてこなかった子は、
見たことがあるはずの問題すら初見の問題に感じ、
考え方や手の動かし方も身についていないから、「やり方知らない」「忘れた」となる。
サーパスは、そういう子を「ほれ!見たことか!」「今さら遅いわ!」
「もう知らん!」とばかりに無視したりはしない。
だが、受験までの残り日数がどんどんと減っていく中で、
何度声をかけてもアドバイスを聞かなかった子と、ちゃんとやってきた子とで、
前者だけを優遇するのもおかしな話である。(後者を優遇するというわけでもない。)
サーパスは、その時その時、ちゃんとやろうとしている子を、きちんと公平に見る。
すなわち、心を入れ替えて頑張ろうとしているなら、それを大いに応援したいが、
だからと言って、その子だけに付きっきりにはなれない。
同じように頑張っている子や、前からずっと頑張っている子のことも応援するから、
どうしたって、自分(子ども)一人で頑張る時間も必要になる。
そのときに、これまでもずっと頑張ってきた子は、
頑張ってもうまくいかないことがあるのを知っているが、
初めて頑張った子は、「こんなに頑張っているのに、なんでできないんだ!」と、
頑張ったらすぐに結果が出せると思いがちで、その結果、
思い通りにいかないことに苛立ち、頑張りが続かなくなる(可能性がある)。
大変だとは思う。キツイと思う。間に合わないといよいよ焦るかもしれない。
厳しいことを言えば、ちょっと頑張ったくらいで、
毎日正しい方法でコツコツと積み上げてきた人に追いつけると思っていたなら、
そんなに甘くはない。また、今から入試までに何千問も解けるわけでもない。
だからこそ、1問1問丁寧に取り組んで、その1問から学ぼう。気づきを得よう。
きちんとやったら、やった分だけ成長する。やった分だけ合格に近づく。
きちんとやろうと、入試が始まる前に思えて良かったじゃないか!
