塾のみならず学校でも、「人がいない!」と言われて久しい。
「少子化ですから・・・」ということではなくて、
先生という仕事に魅力ややりがいを感じる「大人が足りない」のだ。
30年、40年くらい前には、塾・予備校の一大ブームみたいな異様な時期があった。
給与もきっとバブリーだったのだろう。人気の職業の1つだったのではないか。
また、教員採用試験は超超超狭き門で、先生になりたくてもなれない人はいたが、
先生になりたい人がいない時代が来るなんて、当時は想像もつかなかった。
しかし、ときは流れて、先生になりたいと考える人は、
(特に若い人の中からは)だいぶいなくなったようだ。
教育実習に行ってなお、先生になる気はなく、
むしろ実習する前から就職先の決まっている人もいると聞く。
実習生を受け入れる学校や先生、そしてその授業を受ける学生にとってみたら、
どうにも納得のいかない話、ただ負担だけかけられた形なのだが、仕組み上は問題ない。
内定をもらっていたって、教員の資格を取る権利、自由はあるのだから仕方ない。
大学生のアルバイト先としても、先生業は選ばれにくくなっているように感じる。
個別指導塾のように、働く曜日や時間にある程度の融通がきき、
あらかじめ言っておけば、長めの旅行にも出かけられるというところなら、
まだ働きやすいのだろうが、集団塾ではなかなかそうもいかない。
曜日と時間が1年間固定で、長期休みには講習があるのが集団塾の常である。
およそ令和の働き方に合わない。
一方で、令和の状況や価値観に文句を言っても仕方ないと思いつつ、
自分の好きなときに働いて、自分の好きなときに休めるのは素敵なことなのだが、
しかし、そろそろどこかでうまくいかなくなるだろうなとも思う。というのも、
自分は好きなときに休みたいけれど、それを人にやられると不都合を感じるからである。
スーパーでも銀行でも定休日があるのは構わないが、不定休になったら困る。
ネットで頼んだものは、指定した日時に届いてほしいし、
こちらの都合で受け取れなかった場合も、再度指定した日時に迅速に届けてほしい。
自分はそんな働き方をしたくないし、強制されたくないけれど、
自分が必要なことに対しては、ついついそう考えてしまわないだろうか。
そういう時代の風潮に合わせるなら、先生も好きなときに休めるようにすべきなのだろう。
それを可能にしたら、先生になりたいという人の数が少しは戻ってくるかもしれない。
だけど、「1月2月にはスキーに行きたい!」「温泉もいいな!」
「夏には涼しい南半球に行きたい!」
「3連勤でちょっと疲れが溜まったから、明日は休むぞ!」
これを先生にやられたら、生徒とその保護者は間違いなく困ると思う。
極端に言ったら、受験直前の塾や予備校、あるいは学校は、毎日開いていてほしいし、
(健康でいてくれるなら)先生にもずっと常駐していてほしいのが、
その時期の受験生や、ご家族の本音だと思う。
もちろん、毎日常駐するのはどんな先生であっても難しいのだが、
しかし、昭和や平成には、そんな先生、そんな塾もそこら中にあった。
また、「数学が、やってもやってもできるようにならない!」
「明日の小テストで満点取れなかったら、内申点が5じゃなくなっちゃう!」
などと泣きつかれて、深夜まで補習してあげたことや、
手当てのつかない状態で休日出勤したことも、ベテランの先生ならきっとあると思う。
その働き方が良いなどと言う気はないし、昔は良かったなどと言う気もさらさらない。
休みは必要だし、サービス残業サービス出勤など、無い方がいいに決まっている。
また、共働き家庭、家事の分担が当たり前な現在、
先生だってそんな働き方には無理がある。
仕事だけでなくてプライベートも充実させたい!というのは、
当然あっていいし、あるべきだと思う。
滅私奉公すべきだなんて、全く思っていないし、
身体を壊して心を病むくらいなら、その環境から離れてでも自分を守ったほうがいい。
ただ、自分を犠牲にしてまで頑張る必要はないけれど、
全員が全員、自分のことしか考えなくなったら、回り回って自分も過ごしにくくなると思う。
例えば、お医者さんや看護師さんなども本当に大変なお仕事だと思う。
(いい表現が見つからないが)変な患者、ルールを守らない患者、高圧的な患者・・・
色々いると思うけれど、彼らは患者を選べない。
嫌になること、休みたくなることもあると思う。
だが、今日は行きたくないからお休みします!とは言えないだろうし、
1ヶ月くらい南の島でのんびりしてこよう!が許容されにくいお仕事だと思う。
医療のお仕事だって、令和の働き方に合わないといえば合わない。
だが、そういう仕事、そういう働き方を請け負ってくれる人がいないと、
僕らの生活は成り立たない。安心して暮らすことができない。
もちろん、その仕事と比べたら、塾や予備校、あるいは学校の先生の仕事が
僕らの生活において緊急性を持つことはないと思う。
だが、緊急ではない分、逆に言えば、常時必要なものと言えはしないだろうか。
先生の働き方が時代に合わなくなっているのは百も承知だけれど、
その仕事を「割に合わない」仕事に位置付けてしまうと、成り手はますますいなくなる。
どこもかしこも映像授業、AIによる授業ばかりになり、
いずれは登校(登塾)するというスタイルもなくなっていくかもしれない。
こういうところでも想像力は大切だと思う。
先生の成り手がいなくても、大人は困らないかもしれないが、
その人の子どもは困るかもしれない。もしくは、孫が困るかもしれない。
または、近い将来、学校に通学したことがなく、集団生活をしたこともない、
そんな子どもたちが(大人になって)社会に出てくるかもしれない。
と、そういう意味で、「好きなときに働けて、好きなときに休める」という
今どきの価値観は、目先の自分の生活にとってはありがたいことであるが、
それが全体として行き過ぎると、困るときがいつかやってくるかもしれないと思う。
「ワーク・ライフ・バランスを捨てる」という、高市さんの発言が話題になった。
表現としては、いささか過激であったと思うし、
揚げ足を取られる可能性の高い、炎上必至の言い回しだったとは思う。
だが、労働時間を超過して働くとか、「心臓を捧げよ」(進撃の巨人より)とか、
そういうことを求めているのではなくて、
例えば、子どもたちが明るく伸び伸びと過ごせるように、あるいは、
自分が(子どもの頃に)受けた恩恵や愛情を、次の世代も享受できるようにと、
自分以外の人の幸せを想う大人がたくさんいれば、
きっと世の中は良くなると思う。
世の中が良くなるということは、自分を取り巻く環境も良くなるということで、
結果、自分も含めたたくさんの人が幸せになるということなのだと思う。
