スポーツや音楽の世界の方が、そういう傾向は強いと思うけれど、
自分よりも後からそれを始めた人や年下の人(以下A)に、
技術やセンスで全くかないそうもない、そういうことはよくある。
羨ましさから始まって、妬み嫉み僻みにまで繋がるかもしれない。
自分が上手くできないことを、何でAはあんなに上手にできるんだろう?と思い、
しかも、後からきておいて上手いもんだから、
Aは「練習しなくても上手い」のだろうと思い込む。
だから、その超絶上手く見えるAのことを「天才」「神」だとまつりあげる。
こういう局面で、人は(極端に言うなら)二種類に分かれる。
自分は、そのAのように上手くやれないから、
「面白くない」「向いていない」「天才はいいよな」となってしまうタイプと、
自分はAのように上手くやれないけれど、だからこそ、
「面白い」「頑張りたい」「どうしたら上手くなれるんだろう?」となるタイプである。
世界は広いから、稀に「天才」がいるのだと思う。
だが、今自分の目の前にいる超絶上手く見えるAが、その「天才」かというと、
実は、世の中にたくさんいる、平均より上手い人くらいのレベルだったりする。
そして、「天才」だと思われているA自身は、自分が「天才」ではないのを知っていて、
それで、もっと上手くなりたい!と、ひたすら練習に打ち込む。
つまり、Aは、(周りの人からは)「練習しなくても上手い」と思われていたが、
実は、(周りが知らないだけで)ひたすら練習し続けている可能性があるのだ。
Aのように、自分が「天才」でないことを知った上で、向上心のある人は、
上手くなるためには練習するしかないとわかっているし、
突然、プロのような技術が身につくわけないことも知っている。もっと言えば、
練習したからといって、必ず上手くはなるとは限らないことも知っている。
それでも練習し続けるから、練習した分、上手くなるのである。
逆に、厳しい話になってしまうが、
たいした練習もしないで、ただ羨ましがったり不満を言ったりしている人ほど、
ある日、突然上手くなる自分を夢想していたり、
「頑張ったらできる」「もっと頑張ればなんとかなる」「死ぬ気でやったら」
などと、頑張ったときの自分を過大に見積もる傾向がある。
頑張っても頑張っても全然上達しないものに向き合い続けた経験がないから、
何でもかんでも(ほぼ不可能なことに対しても)、「頑張れば何とかなる」と思っている。
そういう意味で、「やればできる」「頑張ったらできる」という言葉は、
とても魅惑的な言葉だけれど、本当はちょっと無責任な言葉でもあると思う。
物事には、頑張ったら必ずできるようになるものと、
頑張っても頑張っても、できるようになるとは限らないものとがある。
頑張っていないうちは、この差はわからない。やってみないとわからないのだ。
つまり、「頑張ったけどできなかったじゃん!」がありえる。
だが、この「頑張ってもうまくいかない」ことがあるのを知ることには、
とても大きな意味があると思う。それを知って初めて、思考や工夫が生まれる。
そう考えると、勉強の価値は成果を出すことだけではないとも言えるのではないか。