梅雨時ではあるが、涼風がかすかに入り込む、この時節にしては抜群の日和。
校舎へ向かう車中ではロシア語学習を習慣としているので、
この日も例に漏れず乗車とほぼ同時に参考書を開き、
時折目線を天井に振り向け集中の対象を大脳へと移しながら記憶を確認していた。
数分ほど経ってからであろうか。
テキストから目を離し、視線を前髪がうっすら見える程度に上げると、
ふいに両眼を二三度しばたきたくなった。
これはどうしたことだろう。
異物が混入したような不快感はない。私は本能的に視線を正面に据えた。
それは異物ではなかった。明瞭に意識されたもの。それは車窓の風景であった。
青い空、白い雲、強い日差し、濃い緑。
こんな単純明快で短いフレーズがことのほか似つかわしい
雨上がりの景色であった。
美しいとか、すばらしいとか、そんな言葉以前の何かが私の心の的を射抜いた。
こんなとき、艶やかな直観美に冗長な修飾語など何の役に立つであろう。
夏の原色にごまかしが利くはずはない。
ところで、どうして一分一秒にも満たない刹那に直感は働き、
森羅万象から美を選択できたのであろう?
そういえば思い当たるふしがある。
先週の土曜日から日曜日にかけて母の実家に赴いた時のことだ。
米寿を過ぎたばかりの伯母が亡くなり、十年ぶりに宮城に向かった。
十年一昔である。
親戚はみな各人各様に齢を重ね、時の隔たりを否がおうにも意識させられた。
ところが、夥しい変貌を遂げている人的環境とは対照的に、
山野には私にとっての原風景が未だに息づいていた。
確かに地下鉄も新たな国道も幼少期には整備されていなかった。
しかし、青々とジュウタンを敷きつめたような田圃を吹き抜ける澄み切った風と、
奥羽の山々の個性的な稜線は何も変わっていなかった。
童心が湧き上がった。
そしてなぜか凛とした気持ちになった。そういえばこの日も雨上がりであった。
電車は次第に市街地へとすべり込み、
車窓には駅特有の雑踏が映し出され始めた。
私も我に返り、機械的にルーティンワークに精を出す。
そして時間を置かず、電車から降りた。
美しさとは偶然との触れ合いから生じるものだと信じていたが、
実はそうではなかった。
この世に生を受けて以来連綿と続いている
自らの経験の積み重ねによって裏付けされた直感力によってのみ、
美は見出され得るのだと四十路を越えてはじめて知った。
してみると、私たちが為すべきことは、経験の更新、
つまり間断なき心のリニューアルなのであろう。
より良いものを吸収し、自らもより良いものを提供していくことによって
環境の質を向上させ、更にその環境と自己との相互作用を繰り返しながら
感性を練磨していく。この連続性の中にこそ、
幸福というものを手に出来るカギが存在するような気がしてならない。