時事問題に思う

年末を迎えると、受験生は社会科の授業で本格的に「時事問題」のまとめを行う。

今年度も「北陸新幹線 長野−金沢間開業」や「産業革命遺産の世界遺産登録」、

「マイナンバー制度導入」、そして「大村智さんと梶田隆章さんのノーベル賞受賞」

などを初めとして、年末年始に数々のトピックスを整理しなければならない。

とは言え、日頃から身の回りの出来事にアンテナをはって

ニュースをキャッチしてきた生徒たちにとっては頭の整理で済むはずである。

(ですよね、受験生の皆さん!)

中学入試において、時事問題の扱いは、中学校によって多種多様であるが、

出題形式の1つとして「○○年前に起きた出来事」というタイプがある。

今年であれば、「2015年の○○年前」もしくは「2016年の○○年前」という、

下1ケタが「5」か「6」の年に起きた歴史的な出来事から

地歴公を問わず出題されることになる。

下1ケタが「5」であれば、古くは「大化の改新(645)」があるが、

今年は何と言っても「戦後70周年(1945)」が最大の目玉であろう。

昭和から平成へと私たちの生活に直結する歴史の流れは、

入試云々ではなく、「節目」として心に刻みつける必要があるのだろう。

ところで、私の個人史的に見た「5」と「6」にまつわる強烈な記憶、

それは「災い」である。

とりわけ、1986年の「旧ソ連のチェルノブイリ原発事故」と、

1995年の「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」には衝撃を受けた。

早朝テレビに映し出された狼煙(のろし)のように黒煙を上げる神戸の街並み。

首都のど真ん中で起きた地下鉄テロとサイレンのけたたましい音。

信じて疑わなかった安全神話の崩壊。

「失われた10年」と呼ばれた1990年代を象徴するかのような

暗澹たる事件であった。

まさしく「世紀末」と呼ぶにふさわしい地獄絵図が、未だに脳裏に焼き付いている。

一方、「チェルノブイリ」についてはではあったが、

「阪神・淡路大震災」ほど切迫した問題ではなかった。

放射能がジェット気流に乗って各国に拡散されたが、

それでもどこか他人事だったような気がする。

確かに大惨事であったとこは頭では理解できてはいたが、

被害状況が身に迫る危機ではなかったせいもある。

「福島」で同様の事故があるまでは。

私が「チェルノブイリ」の悲劇を「人間のかなしみ」として同苦・共感できたのは、

今年ノーベル文学賞を受賞した、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの

『チェルノブイリの祈り』(岩波書店)を読んでである。

この書物には、実際にチェルノブイリで被害にあった人々の「声」が

ダイレクトに語られている。

この「声」は到底要約などできない。

「人間が恐ろしい」という言葉が何度登場したのであろう。

もうこれ以上コメントを書くのは不可能である。

この話題はここで切り上げることとして、

先日書店でフランスの新聞『Le Monde』が目に留まったので

目を通して(移民についての報道を知りたかったこともある)いたら、

偶然スベトラーナ・アレクシエービッチさんのインタビューが、

たまたま掲載されていた。

題名は『La liberte,c’est un travail long et penible.』

日本語に訳せば「自由―それは長くつらい労働」である。

自由とは、自由であるために常に社会に働きかけていくべきものであって、

誰かが無条件に与えてくえるものではないのだと、

彼女の言葉を通して改めて実感させられた。

(この新聞の発行日は11月14日、

前日にフランスの同時テロが勃発した、まさにその日であった。)

話が相当逸れてしまったが、

生活に直結する出来事に、主体的に「関わろう」とする心構えと、

身近な現象に対する「観察力」を、

時事問題の学習を通して養成するのが、

受験まで残り2か月の社会科教師の使命である。

未来を見据えて、生徒たちと年末年始、格闘を続けていこうと強く思う。