先日、車内でこんな光景を目にした。
私立小学校に通っているらしい、制服に着られたようなあどけない男の子と、
その母親が地下鉄に乗り込んできた。
男の子は空席を見つけると、すばやく座り込み、母親はその前に立った。
男の子は席に着くとおもむろにカバンから本を取り出し、
小さな両手でしっかりとつかんだかと思うと、唐突に歌い始めた。
「ウサギオイシ、カノヤマ〜♪」
母親は、「シーッ」と制したが、
男の子は「ウナギ美味しいじゃないの?鰻は美味しいけど、ウサギ美味しいの?」
と微笑ましい冗談を母親に返したかと思うとすぐに、
「コブナツリシ、カノカワ〜♪」と歌い続け、「〜ワスレガタキ、フルサト〜♪」
と最後まで歌い終えてパタンと本を閉じた。
母親はしきりに男の子の両脇の乗客を気にかけている風だったが、
男の子のほほえましい唱歌の声に、車内が心持ち、ほっこりしたような感じがした。
童謡や唱歌は本当に歌詞がいい。
メロディに乗った「ことば」の一語一語に輝きがある。
国語の授業で詩を学習すると、生徒たちは嬉しそうな顔をしない。
中には嫌悪感をむき出しにする生徒もいる。
理由は簡単。「何を言っているのかわからない」からである。
先日、小学5年生の授業で、村野四郎さんの『飛込み』という詩が登場したが、
散文ならば実力を如何なく発揮するような生徒たちが、
この詩の比喩を捉えられず、散々な結果となっていた。
詩独特のひねった文体や比喩表現を的確に理解するには、
書かれていない部分を補う「想像力」が殊に必要であるのは言うまでもないが、
生徒たちにとってはこの作業がとりわけ億劫なのであろう。
今の子供たちは、「わからない」ことに耐えられない。
すぐに解答と結びつかないと慌てだす。
しかし、人生は解答がないことだらけである。
私個人としては、入試において詩を出題することには若干の抵抗感もあるのだが
(表現技法は別として、そもそも詩を得点化できるものなのか?ということ)、
入試で出題されるおかげで詩の授業を出来るというのも皮肉ではあるが有り難い。
というのも、詩は何よりも「ことばそのもの」の美しさを表現しているので、
心の柔らかい小学生の間にしっかりと詩心の種を植えておきたいからである。
だからといって、いきなり「詩心」は養えない。
そこで、詩の授業で心がけているのは、まず何よりも『音読』である。
詩自体がそもそも音楽性を宿しているので、抑揚をつけて声に出すと、
何となく詩の良さは味わえる。
授業では極力全員の生徒に詩の音読をさせる。
すると、驚くほど個々人の読み方に違いが出る。
生徒たちも詩を読みあい聞きあいしている内に、
頭というよりは心で詩心を「体感」出来てくる。
詩に限らず「音読=声に出す」という行為は、
国語力の土台であることをつくづく感じさせられる。
ダンスミュージックが世を席巻する平成の世。
サウンド以上に「ことば」そのものを大切にし、
「想像力」を逞しゅうする未来の担い手たちを育てるために、
我々大人たちは子供たちとどのような「ことば」のやり取りをするか。
これは我々大人の「想像力」にかかっているように思われる。
きっかけを与えてくれた「ウサギオイシ」の男の子に感謝。