さて、偏差値の負の側面について2回のブログで書いてきた。
1回目のブログは、
自分の努力だけではどうにもできないものに振り回されることの生きづらさ、
2回目のブログは、
他人との比較の中に身を置き続けることで、
他人ありきでないと自分の居場所や価値を見つけられなくなる怖さや、
優劣だとか、自分にとって有益かどうかで、人を選ぶようになる浅ましさ
について書いた(つもりである)。
そんなものは綺麗事だ、受験こそ、塾こそ、競争の元凶ではないか!
という反論もあると思う。
または、厳しい競争社会を勝ち切ってきた人からは、
偏差値至上主義ではなかったとしても、やるからには、勝負事は勝つことが大事で、
戦う前からそんな考え方であれば、そもそも勝てるわけがない、
お話にもならない…と取り合ってももらえないかもしれない。
負け犬の遠吠えのようにさえ思われるのかもしれない。
後者の考え方については、別段何とも思っていない。
平たく言えば、人生観の違いのようなものかと思う。
交わらないものは交わらないし、交わる必要もないのだと思う。
だから、これまで書いてきたことも、これから書くことも、
その人生観が違う人向けの言葉ではないことを了解していただきたい。
了解していただいたという仮定のもとで続けると、
受験や塾が競争を招いていることは、間違いなく事実である。
だが、競争=悪ではないはずだ。
そんなことを言い出したら、資本主義は成り立たないし、
オリンピックもワールドカップも、運動会も成立しない。
健全な競争は存在する。
今回のWBCにおいて、チェコ然りメキシコ然り、あるいは、アメリカも含めて、
日本に負けたからといって、その価値が下がったチームはなかったと思う。
問題なのは、メダルを取れないなら大会に出る意味が無い!
というような発言や姿勢が、赤の他人から出てくることだと思う。
競争で結果を出せた場合も同様である。
偏差値の高い憧れの学校に、全員が合格するわけではない。
それまでの努力と、入試の結果が一致するとは限らない。
偏差値の高い学校に合格するのは難しいのだ。
だから、合格できたのなら、頑張りが報われて本当に良かったと思う。
だが、ここでも、無関係だった大人が妙に浮かれて、
それをあちらこちらでもてはやしたり、自慢したりするのは違う気がする。
我が子の受験に全く協力的でなかったお父さんや、
偏差値で怒りまくっていたお母さんが、
手のひらを返したように進学先を自慢するのは……と思う。
そのときどきで、良い結果が出ることもあれば、
そうでない結果を突き付けられることもある。
他の人を見たら羨ましく思うことや、辛く思うこともあるかもしれない。
だが、子どもの人生は、受験の結果だけでは決まらないし、
まして、偏差値なんかでは全く決まらない。
頑張ったことや、頑張れないこと、うまくできたことや、うまくやれないこと、
その過程を、一番の味方として見守ってあげてほしい。