偏差値にとらわれる②

偏差値という物差しは、
入試で合格する難しさを説明したいときには便利であるが、
一度その魔力に憑りつかれてしまうと、成績優秀な子にとっても、
自分で自分を苦しめる可能性が増すという、ひどく厄介なものである。

偏差値は、他者との比較において、
自分は成績が上の方にいるのか、そうでもないのか、
といった、その集団内での自分の位置を示す1つの指標である。

そこで上の方にいれば、居心地よいのかもしれない。安心するのかもしれない。
だが、裏を返せば、いつそのポジションを失うかという不安とも隣り合わせである。
常に自分と他者とを比較しているから、心が休まらない。
一度偏差値に囚われてしまうと、もう、考え方を一新しない限り、
自分のやりたいことに没頭する余裕もなくなるかもしれないし、
もっというと、自分のやりたいことを見つけることさえできないのかもしれない。

 

偏差値の高い中学校に合格すると、偏差値の高い大学に合格できる可能性が増し、
偏差値の高い大学に合格すると、望んだ企業に就職できる可能性が増す。
望んだ企業に就職できれば、幸せな人生を送れる…。
そんな風に思っている人は、
偏差値の高い学校に合格しないと、将来幸せになれない。
偏差値の高い学校に合格しないと、人生は失敗である…
そんな風に思ってしまう危険がある。

また、偏差値の高い学校に合格できたとしても、
A中学とB中学では、どっちの方が上だ!のような優劣でものを見る人は、
絶えずそうやって、物事を優劣で判断する癖が染みついているせいで、
人に対しても、そういう優劣をつけて見てしまうかもしれない。
そしてまた、大人になっても、入った会社の知名度や、肩書や収入ばかり気にする。
結婚して子どもが生まれれば、我が子には他の子どもよりも優秀でいてほしい…
などと、そんなことばかりを気にするのかもしれない。

自分の偏差値よりも、偏差値が低い人相手には上から目線で接するのに、
自分よりも偏差値が高い人相手には、卑屈ともいえるような態度をとる。
就いている仕事や、乗っている車で、人の価値を決める。
我が子をそんな大人にしたいわけではあるまい。

 

「そんなこと言っても、就職活動ではいまだに学歴が関係あるじゃないか!」
と考える人もいると思う。それは確かにそうだ。
だけど、それをそういう一面もある、で終わらせておけば、大事には至らない。
それを全てのように思いこむから、苦しくなるのだと思う。
それはそれ、これはこれとして、折り合いをつける。
ただそれだけのことだと思う。