中学受験が選択肢の1つになる理由②

「落ちこぼれ」の対義語で、「浮きこぼれ」という言葉があるそうだ。
「浮きこぼれ」とは、わかりやすく言えば、
学力が高い(頭が良い)ことで、学校の勉強を簡単に感じ、
その結果、学校に馴染めない人のことを指す言葉のようである。

学力が高い、頭が良いと聞くと、羨ましく感じる人もいると思う。
学力が高くて生き辛いなどと言われたら、
何なの?自慢?嫌味?と不快に思う人もいるかもしれない。
しかし、頭が良いことで息苦しさを感じている人は現実にいるのだ。

 

教科書なんて飛び越えて、もっと知りたい!どんどん知りたい!
という好奇心旺盛な子が、変わった子、変な子扱いを受けてしまうことはある。
知識をひけらかすつもりはなくても、承認欲求は誰にだってあると思う。
しかし、その知識が豊富過ぎて、先生に疎まれることもあるかもしれない。
その結果、なるべく目立たないように過ごそうと思うかもしれない。
せっかくの長所を、人に知られないように隠そうとするだけでなくて、
自分は人と違う、自分は変なのだと、自己否定感を持つようになるかもしれない。

わかりきったことを延々と聞かされるのは、大人だって苦痛だ。
単純なドリルを、規定の回数こなすことを強いられるのだって、
すでに知っている漢字を、初めてその漢字を知った子と同じ回数書くことに、
どんな意味があるのか。
サッカーが得意な子やピアノが得意な子は、その能力を評価されて称賛されるのに、
学力の高い子の、教科書の範囲を超えるような発言(質問)は諫められる。
他の子と足並みを揃えるように求められる。
さらには、運動が苦手だったり、集団行動が苦手だったりすると、
頭だけ良くてもね…などと嫌なことを言われたりする。

 

発達の程度に凸凹があって、ものすごく得意な(特異な)才能を持つ一方で、
多数の人があまりストレスを感じずにできることを、苦手にする人がいる。
頭は良いが、集団行動が苦手であるのもその一例だと思うし、
自分の世界に没頭するのは得意だが、みんなで一緒に!が苦手であるとか、
ゆっくり時間をかけてよければ、人には真似できない質の高いことができるのに、
複数のものごとを同時期にやろうとすると、パンクしてしまうとか、
色々な人がいる。

少し乱暴な言い方をするなら、
ノーベル賞を取るような稀有な才能を持った人たちも、
少なからず、そういうところがあるんじゃないか、と思ったりする。
もっと乱暴なことを言うなら、
ノーベル賞を取ったから、多くの人に認知されて称賛されたけれども、
そうでないときは、何か変わったことをやっている人!
と思われていた可能性だってあるような気がする。

何を言いたいかというと、
いわゆる学校の成績にかかわるようなところでは無い部分に、
何か光るものを発揮する子も、実は、そういう才能の持ち主かもしれない!
と言ってもいいのではないか、と思うわけである。

 

「義務教育は」「公教育は」という主語から始まる文章が、
「社会性や協調性を学ぶところだ」という述語で結ばれることに、
僕は息苦しさをおぼえる。
子どもの人権という観点からもそうなのだが、
つまらないことで、その才能を潰してほしくないと思う。
その子その子の個性や良さを認めて、評価して、
さらにはもっと伸びるように見守ってほしい。

そう考えたときに、中学から私立に進学するということが、
しかも大学合格実績や偏差値ではないところで学校を選ぶということが、
選択肢に十分になりうると、僕は思っている。