今朝、たまたまテレビをつけたら、「スッキリ」という番組で、
『コロナ禍のオンライン講義では、映像授業を倍速で視聴していたため、
対面授業で教師の話す速度が遅く感じるという人が増えている』
という(ような内容の)特集が組まれていた。
こういった情報番組の内容を、どこまで信じるか
というのは難しいところではあるのだが、
テーマがテーマなので、つい最後まで見てしまった。
まず、そもそもの話で挙がっていたのは、対面授業の受け方ではなくて、
ドラマや映画、あるいはアニメなどをYouTube等の動画サイトで視るときに、
時間節約のため倍速で視る人が増えているという話だったから、
映像授業、対面授業のタイトルをつけているのは、違うのではないかと思う。
だが、気になったのは、街頭インタビューに答えている学生たちの発言である。
(もちろん、これも制作側の裁量次第で、言葉を発した本人の
意思や文脈関係なく言葉を切り取ることが可能なわけなので、
インタビューに答えていた学生たちが、どういう意図で話していたかはわからない、
と断りを入れたうえでの話にはなるが。)
倍速で視聴する理由として、
「要所要所だけ」「重要なところだけ」「自分の気にしたいところだけ」
「あまり面白くないなと思ったら、結果だけ」見る。
「メリットは時短」「1つの講座が90分あると家のことができなくなる」
と、このような発言が続いていた。
このテレビを見ながら思い出したのは、
スタジオジブリの『千と千尋の神隠し』が初めて舞台化された際、
その演出をジョンケアードというイギリスの方が担当されたのだが、
そのときに、他のイギリス人スタッフから出た話である。
それは、『千と千尋』を観たことのある人にしか伝わらない話で申し訳ないが、
「千尋がカオナシと電車で銭婆の家に行く」シーンを、
イギリス人スタッフは、「重要じゃないからカット」しようと言い出した
という話なのだが、たしかにこの場面、
会話もなければ、物語の進展に必要なものが何もない。
あのシーンがカットされても、ストーリーが繋がらないことは無い。
だけど、それまでの目まぐるしい展開を<動>とするなら、
電車が動いていて景色は流れているけれど、一転<静>になったあの場面は、
何も無いが、しかし重要な価値を持つ、そんなシーンだと思う。
あの「間」のおかげで、視聴者は感じたり考えたりすることができるのだと思う。
つまり、何も無いから価値も無いのではなくて、
何も無くても価値がある、ということもあると思うし、
何も無いことが、何かがたくさんあることよりも大切なこともあると思うのだ。
先の学生の発言を、(意図も知らずに)とやかく言うのは、本当は良くないのだが、
「重要なところだけ」とか「結果だけ」とか、随分と忙しない感じがする。
大事なポイントだけを集めれば時短になるのかもしれないが、なんとも寂しい。
少なくとも、タイトルにあった映像授業や対面授業という教育については、
「どこに大切なものがあるかわからない」から「真剣に聞こう」とする
謙虚さが必要だと思う。一期一会の講義を、大切にして欲しいと思う。