偏差値教育と自己肯定感

前回のブログの続きのような内容になるが、
「ちゃんとやりなさい!」「そんなんじゃどこも受からないよ!」
「偏差値〇〇以下の学校は受けさせないからね!」「ダメなら公立だぞ!」
と、このような声をかけても、勉強に集中できるようにはならない。
むしろ、その子の自己肯定感が下がるばかりである。

大人(多くの場合、親)が、子どもに中学受験をさせようとした場合、
例えば、国公立大学に入るためには…とか、理系に進むためには…と、
大学受験に有利になるような学校選びをすることがあると思う。
そして、そのためには、中学は入れればどこでもいいわけではなくて、
ある程度のランクの学校に入れておかないと…という発想になる。
まぁ、わざわざ高いお金を払って中学に進学するのだから、
それは当たり前と言えば当たり前だろうと思う。
だが、その基準を偏差値だけで定めた場合、なかなか酷なことが起きる。

偏差値70は、中学受験を志す子たちの中での約2%
偏差値65は、中学受験を志す子たちの中での約7%
偏差値60は、中学受験を志す子たちの中での約15%
偏差値55は、中学受験を志す子たちの中での約30%…

先ほどの「偏差値○○以下の学校は受けさせない」の〇〇に入る数字が仮に60なら、
中学受験を志している子どものうち、約15%しか、その中には入れない。
その声かけのもと、希望した偏差値〇〇以上の学校に入れたらまだいい方だけれど、
入れなかった場合は、自分はダメな子だ…と思ってしまうかもしれない。

もちろん、その基準は各家庭がそれぞれで決めればいい話なので、
その発言に良いか悪いかのジャッジをしようなどとは思っていないが、
ただ、現実には、その中に入れない子が半数以上いるのだとすると、どうだろう。
多くの子が、せっかく頑張って勉強したのに、自己肯定感を持つどころか、
むしろ自己否定感を持って、中学受験を終えることになるかもしれない…
というのは考えすぎだろうか。

また、先ほど、偏差値〇〇以上の学校に入れたらまだいい方と書いたけれど、
なぜその良い結果が万々歳になると言い切れないかと言えば、
その結果を手にした時の子どもが、達成感や充実感を得たのなら良いけれど、
その基準を超えたかどうかで勝ち負けを決めるような、
あるいは合格した学校のランクで人の優劣を判断するような、
そういう価値観を持ってしまうのは、良くない(と思う)からである。

 

決められた基準以上の学校に合格できたとしても、
サバイバルゲームで生き残った安堵感のような感覚しか得られないとしたら、
その中学受験での経験は、その子の人生における成功体験となるだろうか。
ギリギリのスリルが好きという人でもない限り、
中学受験には神経をすり減らした記憶しかないとか、嫌な思い出しかないとか、
将来自分が親になった時に、自分の子どもにはやらせたくないとか、
あるいは、自分の子どもさえも偏差値という物差しだけで測るようになるとか…。

常に他者との比較において勝ち負けを争うような過ごし方、マウントの取り合い、
それが幸せに繋がるだろうか。