受験学年に上がるあたりから、
「テレビやゲームは、もう卒業しましょう。」
なんて声を父母会でもかけるようになる。
もちろん、とっくにそんなものは卒業している人もいるだろうが、
一応、「これからは」という目安を提示するわけである。
すると、「絶対にダメですか?」とか、
「1週間の中で、どうしても観たいテレビが1つあって…」とか、
「息抜きくらいはさせないと、この子は持たないと思って…」
というような相談を受けることがある。
当然、こんなことは、各家庭で判断していただけばいい。
息抜きがどうしても必要ならさせればいい。
ブログなんぞに書くほどのことではないし、僕らにいちいち了承を得る必要もない。
ただ、僕らの立場で、「どっちでもいい」「観たければどうぞ!」
と言って良いだろうか。
例えば、風邪をひけば、お医者さんに
「今日はお風呂を控えてください」と言われるだろうし、
健康診断の前日なら、
「夜9時を過ぎたら、何も食べないでください」と言われるはずだ。
プロポーズされる時に言われる言葉は、おそらく
「幸せにします。」だろうし、
サンタさんとお話しできる機会があれば、
「クリスマスイブの夜は、いい子にして早く寝ておいてね!」と、言われるだろう。
これらの場面で、「どちらでもいいですよ。」「そちらで判断してください。」
と言うのは、どうなんだろう?と思う。
むしろそこを曖昧にする人のことを、信用できるのだろうか?
「今の実力で、(あるいは今の勉強で)〇〇に受かりますか?」と聞かれて、
「受かるかもしれないし、受からないかもしれない。どちらとも言えません。」
「可能性はあると思います。」「受験は何があるかわかりませんからね。」
「受験は受かるか受からないかなので、2分の1の確率です。」
と、こんなようなどちらともつかない答えで良いだろうか。
その答えは、プロの仕事として、どうなのだろうか。
厳しいなら厳しいと伝えるのが、プロの仕事なのではなかろうか。
もちろん、(合格は)厳しいと言われて嬉しい人はいない。
実際、厳しいと伝えた直後に塾を辞められた人もいる。
そういう意味では、本当のことを言わずに、希望を持たせて
最後まで気持ちよく過ごしてもらう方が、本当のプロの仕事なのかもしれない。