父母会でも時折お話しする、「聞く」という能力の低下について、
「〈聞く力〉を鍛える」(講談社現代新書)の中で、
著者の伊藤進さんがこんな例を挙げている。
10円玉の表と裏を思い浮かべて、その絵をできるだけ正確に書いてみてください。
書き終わったら本物の10円玉と見比べて、
どのくらい正しく書けているかをチェックしてください。
ちなみに僕はやらなくてもわかる。自分が全く正確に書けないことを(苦笑)。
伊藤さんの言いたいことは、つまりこういうことである。
普段何度も目にしているはずのものでも、
細部まできちんと見ているかというと、案外そうでもない。
「聞く」ということも、それと同じではないか。
聞いているつもりでも、きちんと聞いているかというと、案外そうでもないと。
「聞く」というのは、ただ黙って人の話を聞いていれば、
それでいいと思っているのが、そもそもの間違いで、
「聞く」力というのは、水泳のように鍛えなければ
できるようにならない能力なのだという。
こんなことを言われると、世の大人は
「そんな力を鍛えたことはない。」
「自然にできるようになっていた。」
「言われなくてもできた。」と反論するかもしれないが、
時代が変わってしまったのだと伊藤さんは言う。
相手の目を見て話しなさい!と、子どもの頃に言われた記憶があるが、
話し手の目を見て聞く(アイコンタクト)ことも重要な要素である。
言われてみると確かに、たとえばテレビを見ながらの会話などを想像するに
話し手も聞き手も目を合わせていない状況が目に浮かぶ。
また、テレビを見ながらなどの「○○しながらの会話」では、
注意力が散漫になって、ちゃんと会話にならないこともあるだろう。
こういう「ながら会話」の状況が昔に比べて増えたのだろうと思う。
空前のカウンセラーブームだとも、皮肉をこめて書かれていた。
なにかあると、相談は○○カウンセラーに!という話になるが、
話をちゃんと聞いてくれる人が身の回りにいれば、
そんなことにはならないのではないかと。
聞き手にも「聞く」責任があると言う。
会話はキャッチボールだとよく言われる。
話がうまいとかつまらないとか、えてして話し手に全責任が押しつけられるが、
聞き手にも責任があって、それが51%はあると思った方がいいと言う。
50%でちょうど半分だと、責任の意識が軽い。
1%でも多いと思っておいた方が責任を持つ意識が高まるだろうというのが面白い。
他にも「聞く」力を鍛えるために重要な要素はいくつも挙げられていたが、
人の話に興味を持とうとする意識、謙虚さ、
こういったものも重要視されていたのは興味深い。
ついつい人の話に「おもしろい」とか「つまらない」とか、
「ためになった(ならない)」など、そういう自分の評価をつけがちだけれども、
そこから何かを新しく学び取ろうとする、
そういう姿勢が常に必要だというのは、頭でわかっていてもなかなか難しい。
「聞く」力を身につけるためのノウハウが書いてあるハウツー本ではないので、
じゃぁどうしたらいいの?となるかもしれないが、
むしろそんなマニュアル化したハウツーなど、あるはずもない。
ただ、「聞く」って難しいんだなと意識できたら、それが最初の一歩なのかと思う。