国語力が落ちている

国語力が落ちている
いや、国語力なんて言い方ではよろしくないのかもしれない。
国語の点数が取れない!みたいな、ちっぽけな話ではないのだ。
入試を突破するための国語力をつけることも必要であるが、
もっと大きな意味での力をつけてほしいと思う。


文字だけでは情報を読み取れない子どもが増えた。
書いてある情報を読み取れないのだから、
当然、理解することも、それをもとに考えることもできない。
映像ありきのものに慣れ過ぎたからなのだろうか。
そもそも字を読むことへの耐性がついていないのか。
コロナ禍で低学年時を過ごしたことの影響もあるかもしれない。
また、決めつけはよくないが、幼いころに二重言語を学ぶことで、
年齢相応の理解ができるようにならない
『ダブル・リミテッド』というのもあるらしい。

小学生に限った話でもない。
都内の、とある塾の先生が、自分の目の届く範囲で調査したところ、
いわゆる学力の高い生徒ほど、Twitter(今はX)使用率が高く、
その逆になればなるほど、Twitterの使用率が下がり、
その代わりにInstagramの使用率が上がる傾向があったと言っていたが、
こんなところでも文字に対する抵抗感(面倒くささ)が表れているのかもしれない。

そして残念ながら、大人に関してもそうだ。
言った言わない、聞いた聞いていないにならないように、
あるいは、わざわざ御足労をお願いしなくていいように…
と、わざわざ文字に書き起こした(文書やメール)資料を渡しても、
読んでほしい人ほど読んでくれなかったりする。

 

書かれていることすら読めないのだから、
その裏にある、書かなかったこと(行間)について思いを馳せることもない。
だから、見る人が見れば、皮肉や毒を吐いているとわかる文章を書いたとしても、
それに気づけない人には、ただの耳障りのいい文章に見える。
このままでは、近い将来、「また会える?」に対する
「次(があるのなら)は、みんなで集まりましょう」という返事を、
好意(脈アリ)と受け取るようになるのかもしれない。


最後に、またまた小沢健二さんの書いた文章の紹介である。
『インターナショナル小学校で教える日本語の先生曰く、
英語の教科書は英語という「道具」を教えるが、
日本語の教科書は日本語という「情緒」を教えるそうだ。
『こくご』の教科書は、日本語という情緒。なるほどー。』

つまり、国語力が落ちるということは、
情緒、感受性、想像力…といったものが劣化することに繋がる。
そうともいえるのではないだろうか。