僕の家は、なかなか厳しい家だった。今でも小学校の幼馴染たちは、
「スナフキンの家は厳しかったよね。」と言う。
まぁ実際は、本当に厳しい家庭と比べたら、どうってことはないと思うが、
例えばテレビは1日30分までで、
しかも30分までなら何でも見ていいというわけではなく、
見ていい番組にも制限がかかっていた。
また、ゲームは1週間で1時間までだったので、
当時はドラゴンクエスト(通称ドラクエ)が大流行だったが、
残念ながら我が家の勇者には門限があった。
世の中を恐怖に陥れている敵のボスを間近にしていても、
1時間が近づくとお城に帰らなければいけない。
だから計画的な冒険をしなければいけないのである(笑)。
そして当然僕自身にも門限があって、
習い事をしていない日なら5時には家に帰っていなければならなかった。
5時に帰ったところで、テレビもゲームもほとんどできない毎日なので、
必然的に本を読むようになった。
別にイヤイヤ読んでいたわけではなくて、
手の届くところにいつも本があっただけの話であるが、
まぁそういう策略だったのだろう。
大人になって思うのは、この『策略』に引っかかって本を読んでいたのは、
結果的に大変自分のためになった。
子どものころに見たテレビが自分の人生の糧となった!
という人も世の中にはいるだろうけれど、
一過性で刹那的なテレビ番組よりも、
本の方が一生の宝になる可能性が高いと今なら思える。
今はただ、親に感謝である。
今どきの子は、たくさんのゲーム機を持っている。
それにプラスして、やれDSだ、携帯だ、パソコンだと、誘惑は止まることがない。
テレビ番組もチャンネルをあっちこっちと替えていれば、
どこかしらでは面白おかしいものをやっている。
「ウチの子はゲームばかりで…」「いまだにテレビを…」
これだけ何でも自由に手に入る環境では、
よっぽど意志が強くないと誘惑を断って勉強に向かうことなど困難である。
散々魅力的な誘惑を小さな頃から与えておいて、
その誘惑にはまった子どもばかりを責めるのはかわいそうというものである。
少し話は飛躍するが、「ゆとり世代」などと皮肉を言われる世代の子たちも、
当人たちには何の責任もない。好きで「ゆとり世代」になったわけではない。
国の上の方で勝手にそう決まっただけなのに、
「ゆとり世代は我慢ができない」だの「これだからゆとりは…」
などと言われるのは、いい迷惑なのだと思う。
しかし他方、この「ゆとり世代」の話が象徴的だと思うが、
当人たちに何の責任もないはずなのに、その制度を決めた人たちが
その子たちに対して何の責任も取ってくれないことを考えれば、
結局その責任を取らされるのは、その子たちなのかもしれない。
そうなると、子どもは子どもで自分で自分の身を守らなければならない。
例えば自分の意志が弱いことを自覚しているなら、
その誘惑を我慢できる方法を自分で考えて選択するべきであろう。
「たまには息抜きも必要だろう!」なんて甘い言葉を、
たまにでなくしょっちゅうかけてくれる大人も周りにいるかもしれない(笑)。
僕は(私は)ヤル気があったのに、そう言われたら仕方ないなぁ!(笑)
と息抜きしてばかりでは、きっとその僕(私)がいつか困る。
子どもでも、今自分に必要なことを自分で考えて自分で選択する力が
求められる時代になったのかもしれない。