坂道とは何とも心憎いものだ。
毎度ながらそう思う。
「あと一駅かあ」
満員電車での二人の会話に間が生じると同時に、生徒から嘆息が漏れる。
「あと一駅だ」
冷徹ともとれる機械的なオウム返し。
「お前は大丈夫だ」
生徒に向けてか、はたまた己に向けてか、
まるで蝙蝠のようなどっちつかずの返答。
到着間際の車内の雑踏に見る、
決意とも緊張とも受け取れる生徒のストイックな表情。
引率を引き受けた大きな責任を、慣れない人いきれの中で改めて
痛感させられる。
JR某駅を6時半に発った私と生徒は、7時15分に無事下車駅に到着。
プラットフォームに月面着陸にも似た、ドラマチックな一歩目の足跡を刻む。
改札を出てすぐ左折すると、前方に右カーブの緩やかな坂道が見える。
私と生徒はたちまち蟻の行列の一員となり、
吸い寄せられるように坂道を流れに逆らわずに登り始めた。
当然のことながら、歩数に比例して動悸が激しくなる。
ハアハア喘ぎながら最後のアドバイスに執心するする私をよそ目に、
生徒は若き血潮に瞳を輝かせ、
躍動感に溢れたその足は着実に不惑の私をリードする。
と、突然である。
「頑張れよ!」
生徒が、あの体育会系の気合いのこもったエールを腹から発したのだ。
軽い衝撃をとともに、私は思わず、少し前を闊歩する生徒の後頭部に目を注いだ。
「誰に言ったの?」
「俺の前にいる奴」
「知り合い?」
「知らない奴」
こいつ、今確実に成長している!
この瞬間刹那に心身共に大変革を遂げているのだ。
まるで、厳冬の寒さを耐え抜いたさなぎの状態から、
つややかな羽根を春の日差しのもとに投げ出さんともがいている華麗な蝶のように。
「こいつ、今日絶対に失敗しないぞ」
私は微塵の疑いのない絶対的な確信を得た。
羽化の光景を目の当たりにしながら、我々はいつの間にか坂道を登りきり、
校舎の正門に到着していた。
まだ日が差し込み始めたばかりの寒々しい校庭を通り抜け、
構内の控え室で入室のアナウンスを待つ。
二人で他の生徒の人となりを見渡しながら、
「あの半袖半ズボンの男の子、声をかけてみれば」
「まあ、やれたらやるよ」
10分ほど経ち、いよいよその時。
「思い切りやってこい!」
「行ってきます!」
清清しく響き渡る雄叫びと共に、生徒はすたすたと落ち着いた歩調で登っていく。
私は、見えなくなるまで生徒の背中を見届けた。
生徒は、一度も振り返らなかった。
人生を長距離列車になぞらえるならば、受験は乗り継ぎ駅であろう。
受験はあくまで通過点であって、それ自体は目的でない。
しかし、受験という駅は小さな無人駅ではなく、巨大なターミナル駅である。
受験生は新たに手にした切符を手に、次の目的地を目指して乗り換える。
急行列車に乗るのであろうか、あるいは各駅停車か。
はたまた何番線のプラットホームに向かい、どこ行きの列車に乗り込むのか。
車窓に何を見、車内でどんな出会いがもたらされるのだろう。
発車のベルが間もなく鳴り響く。
若き旅人たちよ、未来に希望あれ!