日々、怒られながらも、言われた通りに勉強して、それで不合格だったときには、
「言われた通りにやったのに…」「遊びも習い事も我慢したのに…」
と、その結果に子ども自身が納得できない可能性は高い。こういうときに、
大人から謝罪の言葉や共感の言葉があればまだ救われるかもしれないが、
「だから言ったじゃない!」「もっとちゃんとやっていれば!」などと、
なお、その責任を押し付けられたりしたら、本当にキツイと思う。
また、サポートしていた親も、その結果を受け入れられないことはよくある。
「受かると信じていた」「もっと上にいけると思っていた」「あんなにやったのに」
「何が悪かったの?」「塾が良くなかったの?」「やらせ方が悪かったの?」
「入試の採点が間違っているんじゃ?」と、その原因をどこかに見出そうとする。
さらには、お友達や知り合いの子の合格した学校を聞いて、なお悶々としたりする。
だが、勉強したのも自分ではないし、受験したのも自分ではないのだから、
その親御さんが心から納得できる原因なんて、見つからないのではないかと思う。
そういうわけで、その受験勉強の締めくくり方までを考えた上で、
人に言われて「勉強させられる」のではなく、
子どもが自分の意思で「勉強する」ようになってほしい
というのが、サーパスのスタンスである。
また、希望的観測や甘い見通しで進路指導をしないことも大切にしている。
受かると思っていた学校に不合格になる方が、落差があってキツイ。
大人は、ついつい偏差値や学校名で、大丈夫だろうと高を括ってしまいがちだが、
昨今の、特に午後入試は、そんな簡単には突破できない。午前に合格した学校より、
偏差値では5ポイント下の学校に不合格になることもざらにある。
今年の体験記に、「娘の学力と姿勢では不可能では?」
と(親御さんが)思っていた学校を、こちらがお勧めした話を書いていただいたが、
お勧めしたそのときから、絶対に受かると確信していたわけではない。
(かと言って、こちらから学校名を出す以上、不可能だとも思っていない。)
最初は、入試の難しさを一旦横において、タイプ的に向いている
ということから始めた話である。その後、過去問を進めながら、
まだ努力が足りていない、質問が少ない、直しが甘い…という面談を経て、
だいぶ見えてきましたね、大丈夫そうですね!となって、入試を迎えた。
この途中経過にあるように、私たちは、
子どものことを過大評価も過小評価もしていない。
あるがままに、そのときに足りていないものは足りていないと言い、
できていることはできていると伝えている。
子どもの可能性は信じてあげたいが、希望的観測で適当なことは言えない。
また、この「足りている」とか「足りていない」とかの判断は、
各々の志望する学校の(入試問題の)レベルに対しておこなっているものであって、
模試の偏差値を60にするためとか70にするためのものではない。
すなわち、難関校を志望する子と、そうでない子とでは、目指す到達点が違うので、
模試において、仮に同じ点数、例えば80点を取っていたとしても、かける声は違う。
何をどのくらいできたらいいのか、逆に言えば、何についてはできなくてもいいのか。
プラス、頑張りどき頑張らせどきのタイミングにもマニュアルや正解はない。
我が子の助けになりたい気持ちはあっても、関わり方が難しい。
大学受験のように全力で突っ走ればいい、というものでもないのが中学受験である。
これもまた中学受験ならではのキツイところだと思う。