教師が一方的に説明するような講義形式の(詰め込み)授業ではなくて、
生徒参加型で、自由に意見を出し合う(考えさせる)授業。
受動的授業ではなく、能動的授業。
知識を知っているかどうか、だけではなくて、
その知識を使えるかどうか、まで求める授業。
ある1つの問題に対して、何人かでグループを作って議論し、
解決方法を発表するような授業。
ICT(Information and Communication Technology=情報通信技術)を活用した授業。
(例えば、生徒1人1人にタブレットを配布して、問題を解かせ、
全員の回答をモニターに映し出す。平成教育委員会のような形式。)
まぁ、このような授業は、中高一貫校の先生からすれば、
ずっと前からやっていたので、今更…?という感がある。
しかし、改めて『アクティブラーニング』と言われると、
誤解して捉える生徒が出るかもしれない。
それについては、土曜日の3校合同説明会で、
逗子開成の小西先生もおっしゃっていたが、
『アクティブラーニング』の前には、土台となる知識がないといけない。
ただ単に、詰め込み授業を止めるように捉えれば、
おぼえることが減るように早合点する人がいるかもしれないが、
そういうことではないのである。
そもそも、教科によっては、カリキュラムに追われているだろうから、
あまり長くそっちに時間を取られると、
高校3年になったときに近現代史が終わっていないなんてことになるかもしれない。
また、教科によっては、習うより慣れろで、問題演習量がものをいうから、
それらをやる時間が足りなくなると、
問題演習や知識として定着させる作業は、
きっと宿題になるか、または生徒の自主性に任せられる。
(その自主性だって、塾や予備校に通う生徒が今より増えるだけのことかもしれない。
意識の差、経済力の差が、そのまま学力の差に繋がって…)
想像しただけで、大変そうだ。
そう考えると、いつぞやの『ゆとり教育』と同じように、
数年経って失敗でした!とならないのだろうかと、そんなことを心配してしまう。
新しい取り組みにいちいち反対するような態度を取るべきではないと思うが、
子どもが実験台となった結果、失敗でしたでは困る。
僕は『ゆとり教育』だって、目指したものが間違っていたとは思っていない。
むしろ『ゆとり教育』も『アクティブラーニング』も、
言葉が変わっただけで、目指しているところはそんなに変わらないように思う。
(だから不安に思うのであるが…。)
『ゆとり教育』も『アクティブラーニング』も
授業を担当する教員の力量によって大きく効果が変化する。
(もちろん、生徒の意識や学力などによっても変化するから、
教員だけの責任ではないが)
本当に力のある先生なら、『ゆとり教育』だの『アクティブラーニング』だの
言われなくても、ただの詰め込みにならない、考えさせる授業を展開するだろう。
しかし、全部がそううまくいくとは限らないのは、
『ゆとり教育』制度の結果から明らかなように思う。
一方、その教育を受けることになる子どもだって、
失敗作のように『アクティブラーニング世代』と呼ばれたくはないだろう。
とすると、子どもは子どもで、自分の身は自分で守るしかない。
コツコツやる勉強習慣というか、もっと広い意味での生活習慣を整える必要がある。
毎日○時間勉強しなさい!と言われてしまうと、今までと何が違うの?となってしまう。
そんなものは受動的学習の典型例だろう。
要は何を言いたいかと言うと、
『アクティブラーニング』ってのは、
楽しいものだけれど、楽(らく)なものではないよってことであって、
今まで以上に自主性ってもんが大事になるよね!ってことである。