昨日は、歴史的な一日であった。
現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れたのである。
原爆ドームをバックにオバマ大統領がスピーチしているという構図と、
オバマ大統領の声や表情、話しぶり、
そして話されている内容、選択した言葉が、
何度見返しても胸を熱くさせる。
とても穏やかな表情で話し始めたと思ったのも束の間、
冒頭から原爆投下に触れるスピーチだった。
一呼吸おいてオバマ大統領は言った。
「なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?」
この時僕は『私たち(we)=オバマ大統領とその側近の人たち』
または『私たち(we)=アメリカ人』と思って話を聞いていた。
しかし、ここから先のスピーチでも
オバマ大統領は『私たち』という表現を使い続け、
「だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。」
「だからこそ私たちは、広島に来たのです」と二回繰り返すのだが、
それは『オバマ大統領とその側近の人たち』という意味ではなく、
『アメリカ人』という意味でさえなかった。
おそらく『私たち=全人類』という意味だったのだと思う。
戦争をしかけた日本と原爆を使用したアメリカ。
どちらか一方を加害者とすることで、
責任の所在や謝罪の必要性を説くのではなく、
「男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人」「罪のない多くの人たち」
がいつの時代も犠牲者であるとする。
そして
「私たちは、この街の中心に立ち、
勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像し」
「私たちは、目の当たりにしたものに混乱した
子どもたちの恐怖に思いを馳せようとし」
「私たちは、声なき叫び声に耳を傾け」
「道徳的な想像力をかき立て」ることで、未来を変えていこうと言うのである。
「過去をきちんと清算するためには謝罪が必要だ」という声もある。
「謝罪がなければ一歩も進んだことにならない」という人もいる。
立場や境遇が違えば、色々な意見が出て当然だから、
それが正しいか間違っているかの二者択一にはなりえないと思う。
今はただ、過去は変えられないけれど、未来が変わる第一歩になったと信じたい。
アメリカ大統領としての立場で言えることには数多くの制約があったと想像できる。
しかし、その制限の中でも十分にオバマ氏の人柄が伝わってきた。
コロンビア大学在籍時にオバマ氏が書いた「核無き世界」についての記事があるが、
大統領になっても、一個人としてその熱さを持ち続けていたのだと思うと、
大統領退任後にも期待したくなる。
最後に蛇足だが、あのスピーチを聞いてこんな感想を持つのは
違うのかもしれないと思いつつ、
オバマ大統領は「役者が違う」というか、
「アメリカの大統領になれるってのは、ちょっと次元が違うのかもしれない」
そんなことをも思った。