はっとさせられた。
某私立中学校に赴いた際のことである。
手に入れた過去問の中に竹西寛子さんの『国語の時間』の文章が掲載されていた。
そこでは「友だちどうしの話を聞いていると、言葉がどうも『ワンパターン』である。
原因は、本を読まなくなったせいではないか。」との
十二歳の女子中学生の文章に触れながら、
竹西さんは「ほっとした」と語り、続けて「言葉を知らない、自分の言葉を探そうとしない
怠け心と思い上りの行く手に広がる闇を、はっきり予感しているような知性に
希望も持ちます。」というコメントがあった。
「終生の学びを、と促された朝でした。」との結びの一文を目にした時、
私は思わず顔を赤らめてしまった。本を読まないことの「自惚れた」心を
竹西さんにグサリと抉られた感じがしたのである。
私は早速、この入試問題を題材にして、読書を通じた自分の言葉探しについて
一方的に熱く語ってしまった。あまりのテンションの高さに生徒たちは困惑顔であった。
生徒たちにとってははなはだ迷惑であったに違いない。
それはさておき、日本の乱れている一つの原因として
「読書」不足が挙げられるのは当然であろう。
「読書」を怠ることは「その時その場の自分にふさわしい言葉探しを怠けて、
身近なもので辻褄を合わせてしまう習慣」を身につけることになり、
とかくワンパターンになりがちであるとも竹西さんは述べている。
書物には作者独特の言葉遣い(文体)があり、また作者固有の考え方や感じ方がある。
読書するというのは、時空を超えた他者との出会いなのであり、
出会いの中で私たちは各人各様の触発を受けつつ
自らの言葉遣いや居住まいを正していくのである。
これを「学ぶ」というのであろう。
私事ではあるが、ロシア文学の再読を定期的に続けている。
昨年は、井筒俊彦さんの『意識と本質』(岩波文庫)に時間を割かれたが、
ロシア物の四番バッターであるトルストイにようやく辿り着いた。
米川正夫訳『戦争と平和』(岩波文庫 全四巻)から読み始めた。
一巻平均六百頁ある大作である。
受験期までには読み終える計画でスタートしたのだが、遅々として先へ進まない。
否、先へ進みたくなくなったのだ。
このような感情はこれまでてんで湧いた記憶がない。
アンドレイ公爵やピエール、ナターシャ…作中人物と惜別するのが辛かった。
読み進めつつ、散りばめられた珠玉の言葉を
「自発的に」ノートに書き写した経験も初めてであった。
読後の感動はなかった。その代わり、日常の言葉の使い方だけではなく
考え方そのものにまで変化が生じたことは自らの内に感じ取れた。
幾つになっても読書は素晴らしい。
終生の学びを、と促された「昼下がり」であった。
最後に『戦争と平和』で気に入った部分をいくつか掲載することにする。
「どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう?今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ!この無限の空以外のものは、みんな空(くう)だ、偽りだ。この空以外にはなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはりありゃしない、静寂と平安のほかなにもない、それでけっこうなのだ。」(ナポレオン率いるフランス軍との戦いで傷を負い気絶しかかったアンドレイ公爵が考えたこと)
「人を亡ぼさんと欲する時は、神はまずその人の理性を奪う」(ラテン語からの引用句)
「お前さん、くよくよしなさんな。苦労は一時、暮しは一生だからなあ!え、旦那、そうじゃないかね。現にわしたちもここにこうして暮しているが、おかげで何もいやな目に会わないよ。同じ人間でも、悪い人も善い人もあるからね。」(ピエールが捕虜生活中に邂逅した、運命にどこまでも従順で善良な農夫であるカラターエフの言葉)