小学校4、5年生にもなると、読書でわからない言葉があっても、
サラッと読み飛ばすクセがついています。
もちろん普段の読書で、わからない言葉があるたびにいちいち辞書をひいていたら、
先に進めなくて面白くないですから、それ自体を悪く言う気はありません。
また、知らない言葉が出てきても前後の文章、文脈から意味を類推できるだろう!
と言う人もいるでしょう。
しかし、このクセは結構厄介なのです。
先日の5年生の文章に出てきた「少年がひとりおどりでて」という一部分。
サーッと読んで全体の内容をザックリ掴む(通読)時は、
細かい言葉にこだわらなくてもいいですが、精読しよう!という時でさえ、
こういった言葉はあまり子どもたちのアンテナに引っかかりません。
気にも留めずに読み飛ばしてしまっているのです。
改めて「どういう意味?」と問いかけたときの反応と言ったら… (笑)。
以前、『お地蔵様』を知らない子もいました。
見たことがない!と言われると、確かに最近は見ないかもしれないと思います。
昨年は『糸電話』も作ってみせていましたが、
こういった「え?そんなの知らないの?」
と大人が驚くようなことを案外知らないものですから、
国語に限らず、文章を読んで問題を解こうとしてもなかなか難しいですよね。
実体験を多くして欲しいです。
普段生活している中で、目や耳から入ってくる教養が、実は大きな差になります。
普段の生活はあの人と自分とで大した差はないはずなのに、
アンテナの感度によって、
(同じように生活していても)得られる教養の質も量も違います。
その感度をよくするためには、言葉自体を大切にすることが重要だと思います。
何でもかんでも「微妙」とか「超」とか、「キモイ」という言葉で
済まさないことも大切ですし、何より思ったことや感じたことを、
キチンと主語や述語や修飾語の入った形で話すことも大切です。
国語力の育つ家庭が存在するのは経験上確かです。
そしてそれは単純な読書量だけで、そうなったわけではどうやらなさそうです。
「言葉を大切にする」こと。ちょっと取り入れてみて欲しいです。