僕が好きで読んでいるブログに、関西学院大学社会学部の難波功士教授の書いた記事が載っていた。
そしてその記事は今年の1月8日にヤフーニュースに載った記事だったので、早速検索して読んでみた。長くなるので、多少まとめながら引用させていただく。
まず前提として大学、その中でもおそらく文系の学部には大体「ゼミ」というものがある。
この「ゼミ」というのは、いわゆる講義形式の授業を受けるのではなく、
専門的な学問について学びたいという学生同士が、
プレゼン(発表)したり、それについて討論したり…といったことをする授業である。
担当教員の名前をつけて、「○○ゼミ」と呼ばれることが多い。
ただこの「ゼミ」は、就職に有利かどうかで選択されることも多い。
「△△ゼミ」よりも「○○ゼミ」の方が一流企業に就職している先輩が多いとか、
一流企業とのコネクションが強いとか、
そういった評判もあって選択される面もあるので、
学問を学びたいというのとは少し違った動機の人も少なからずいる。
さて、冒頭の難波教授の記事に進もう。
どうやら難波教授の「難波ゼミ」も就職に強いらしい。
だからこの「難波ゼミ」に入るためには、
難波先生本人との面接(?)で合格をもらわなければならないらしいのだが、
人気があればその分、そこに入るのは難しくなる。
(以下『』内は引用)
『ある学生は、2回目の面談にて
「やっぱり先生のゼミにぜひとも入りたいんです」と訴えました。 』
ところがこの学生、1回目の面談の後、ツイッターで
『「ゼミどこしよ〜めんどくさいどこでもいい笑」と呟いてた』
のだそうです。
『では、なぜこの学生は、こうした矛盾した二つの発話をしたのでしょうか。 』
『「ぜひとも入りたい」が本音であって、「どこでもいい」発言は、
「ゼミごときでバタバタするような人間ではない自分(=大物)」を、
フォロワーにむかってアピールするための演技のように私には思えてならない 』
またその学生は2回目の面談の直後にも、
『「面接ちこく・雨のせい・おわり」とも呟いていました。
約束した時間にちゃんと来ていたにもかかわらず、です。
つまり、もしゼミの選考に漏れた際には、
「あの時、遅刻さえしていなければ落ちていなかったのに…」
と周囲に思われたくて、予防線を張っているわけです。
そう考えてくれば、先ほどの「ゼミどこしよ〜めんどくさいどこでもいい笑」も、
もし首尾よく私のゼミに受け入れられたら
「そんなに必死にならなくても、人気ゼミ(とされるゼミ)に入れた自分」
という自己像の呈示が可能ですし、もし選に漏れたとしても
「どのゼミに所属するかごときで、評価が左右されないような、
確かな価値を持つ自分」を演出できる、
ないしは「ゼミ選考の結果なんて大したもんではない」と主張したいがための
伏線なのかもしれません。 』
この教授が面接の後、学生のツイッターを検索してまで、
このような文章を公共のニュースに載せたことをどうこう言いたいわけではない。
ただ単純に、こういった予防線を張る人が増えたよなと思う。
「知り合いが沢山居たって友達が一人も居ないって事は有り得るんだよ」
はスナフキン(←僕ではない(笑))の名言だが、
スナフキンのような「開かれた孤独」を楽しめる人になったらいいと思う。
ツイッターやラインで日々誰かと繋がっていないと不安…。
その気持ちもわからなくはないが、その繋がりを敢えて切り離すことで
不安を払しょくできる可能性は高い。
スナフキンの孤独は、誰とも顔を合わせたくない、人との付き合い方がわからない、
といった孤独ではない。
「大切なのは、自分のしたいことを自分で知ってるってことだよ」
これもスナフキンの名言である。