とある企業の、とある会議のお話。
その企業では、会議の内容を全て議事録として残しておく必要があり、
この日は、その係り(書記)に新入社員のAが任命された。
会議はいつも通り、滞りなく進行したのだが、
しかしなぜか議事録には、ほとんど何も記入されていなかった。
当然「ちゃんと話を聞いていたのか?」「もっと真面目にやれ!」
と上司や先輩は問いただしたのだが…。
確かにAは会議に参加していたし、
その時々で相槌も打ちながら会議に参加していた。
その様子は他の社員も皆、目にしていたのだが、
あれは聞いているフリだったのだろうか?
もし仮にこのA氏に悪気などなく、真面目に会議に参加していたのだとすると、
これは彼だけを責めることができない、現在の教育状況に起因する問題かもしれない。
というのは、もう10年以上前から、
黒板を写しながらでは話を聞くことのできない子が増えているのである。
だから塾でも、黒板を写す時間と説明を聞く時間を分けることが
しばしばあるのである。
A氏は会議をちゃんと聞いていたけれども、
話を聞きながらメモをとるような訓練をしたことがなかったので、
結果として、ほぼ白紙の議事録になってしまったのではないか。
もちろんこれはただの推測であって
全くの見当違いかもしれないことは断っておきたいが、
今の40代以上の人は、話を聞きながらではメモを取れない!
なんて人が存在することを信じられないかもしれない。
しかし、こういう人は案外たくさんいるのである。
さて、もう5年以上前に出版された
「東大合格生のノートはかならず美しい」(太田あや著)の中に、
現役の高校生と東大生が同じ授業を受けて、
取ったノートを比べあうという企画がある。
その中で授業を担当した原口先生は、
1、板書の部分 2、教師の話を書く部分 3、自分の疑問や考えを書く部分
の3つを区別できるようにノートに書くことが大切であると言っている。
そしてこう付け加えている。
もちろん3つを同時にやることは大変だが、
それをできるかどうかは能力の違いではなく、意識の問題である。
やろうと思えば、少しずつでもできるようになる。
よくないのは、板書を写すだけに精一杯になり、
頭を使わない「板書マシーン」になってしまうことだ!と。
懐古主義ではないけれど、
昔は板書なんか一切しない、当然プリントなども一切ない、
ただ先生が1時間喋って終わり!なんて授業が結構あったと思う。
喋っていることを、ひたすら聞いて、聞きながらメモを取って…
という授業スタイルがあった。
今はこんな授業は流行らないだろうけれど、
でも社会に出てからは、今でもこういう能力を必要とされる。
身につけようと思うかどうか、それだけの差である。