宿題について考える①

宿題を充実させることが求められる昨今である。

勉強をできるようにするには、学習習慣が大事なのだから、
常にやるものが用意されているべきだ。
やるものが提示されていないと、何をやっていいかわからない。
宿題があれば机に向かうが、宿題がないと何もしない。
学力面に課題がまだあるのに、無為に時間を過ごしているのを見ると親が焦る。
この空いた時間に、何かやらせた方がいいことがあるのではないか。
とにかく、「やることがない」などと言って、危機感も持たずに
ダラダラしているのを見ると、焦りどころか怒りが湧いてくる…。

と、こういう発想で宿題があることを求められる時代だ。
今や、自由な校風で有名だった私立でさえ、宿題を課すようになっている。
まぁ、ダラダラ過ごしているのを見ると腹が立って、
「何かやることないの!?」と言ってしまうのは、ちょっとどうかと思うけれど、
(今の大人たちが、子どもだったときのことを思い出してもらえれば!)
一方で、お母さんだって、一息つける時間が欲しいだろうなぁとも思うので、
子ども自身で自己完結できる量と質の課題が、
常にあってほしいことは想像できる。

常にあるとは、どういうことか。それはすなわち、文字通り、
日によって週によって宿題があったりなかったりではなく、
量が極端に変わることも無く、という意味である。

 

楽器を習っていたとき、
「1日練習をしなかったら、3日分下手になるよ」と言われたことがあるが、
毎日続けることで力になるものがある。
音読を毎日課しているのも、そういう理由だ。
同様に、計算練習なども、3日に1回とか、1週間でまとめてという風に
やるのではなくて、毎日やることが大切である。
毎日やるのが当たり前になって、それが習慣化されて生活の一部になったとき、
ようやく、それがその人自身の土台、根幹を成すものとなるのだと思う。

そういう意味で、毎日やるべき課題があることについては、全く反対しない。
だが、わざと課題と書いたのは、それが宿題でなければならないかというと、
そうは思っていないということだ。