国語を教えていると、
「ウチの子、記述を書けないんですけど…」
「記述が出ると、何も書かないんです」
「記述はどうやったら書けるようになりますか?」
「記述の対策は、いつやってくれますか?」
というような相談を受けることがある。
お困りであろうことはわかっているし、
どうにかしてほしい!という気持ちもわかるのだが、
記述を書けないのは、「書き方」とか「まとめ方」とか、
そういう問題ではない場合が多い。
そもそもの読み取る力や語彙力、そして考える力の問題なのだ。
説明的文章の記述問題には、文中の言葉をほとんどそのまま書き抜くだけで、
一定の点数をもらえるような問題もある。
もちろん、丸をもらおうと思ったら、まとめる力も必要であるが、
部分点を稼ぐ(△狙い)だけなら、
書き抜く場所、キーワードさえ見つけていれば、どうにかなる。
ところが、その、書き抜くだけの問題を解けないとしたら、
やはり「書き方」の問題ではない。
記述で、何を書いていいかわからない(白紙や的外れなことを答える)人は、
問題文か、設問を読み取れていないから書けないのである。
だから、そのレベルのときは、
「書き方」の対策をしたところで、書けるようにはならない。
記述を書けるようにするには、まずはインプットの質を上げるしかないのだ。
では、インプットの質を上げるには、どうしたらいいか。
まず、言葉に敏感になってほしい。そして、考える習慣をつけてほしい。
一例を挙げよう。6年生の予習シリーズ(上)は、
『現在でも、日本は森林が豊かである。』(養老孟司「いちばん大事なこと」)
という一文から始まる。
ここで、『現在でも』、『日本は』という言葉に反応できるかどうか。
すなわち、日本は昔からずっと森林が多いんだろうな、
日本以外の国は、きっと森林の数が減っているんだろうな、
と、一瞬でいいから立ち止まって考えられるようになってくれると、
ここから先の文章が、どう展開されるか段々と予想がつくようになるはずだ。
ところで、漫画のように、文字以外に理解を助ける絵があるものしか読んでいないと、
考えながら読むクセがつきにくい(と思う)。
ある程度、難しい文章を読んで、
何を言っているのだろう?どういうことだろう?と考えながら読み進める。
そういう読み方に慣れていって、読んだ後に、その文章を読んだ感想や、
その文章に対する意見が言えるようになれば、
記述を「書く」ことに対する抵抗は、もうなくなっていると思う。
つまり、記述をできるようにするには、考える姿勢が必要なのである。
いや、もっと言うと、国語をできるようにするには、
算数同様、考えることが必要なのである。
逆に言えば、考えない、考えるのがメンドクサイという人は、
算数も国語も思ったようには伸びていかない。
とすると、メンドクサガリをやめるだけで、
記述を書けるようになる第一歩かもしれない。
今日からメンドクサガリをやめてみないか。