効率の犠牲となるもの

つい先日、卒業生が2人訪ねてきてくれた。
偶然、塾の話になって、そのままの勢いで足を運んできてくれたらしい。

 

到着と同時に始まる怒濤の近況報告。
そのついでに、受験前日の思い出を話してくれた。

 

「入試の前に授業してた単元がそのまま出てた!あれがなかったらヤバかった!!」

「社会の授業で雑談してたことが偶然、入試問題に出てた!あんな問題正解できたのは、ワタシだけだったと思う!」

 

もちろん、我々からすると、やっておいた方が良さそうだな、と考えて授業を組み立てていたり、雑談のように聞こえても、実は授業の一環だったりするものなのだが、そんな話を嬉々としてくれるのを聞くのは、悪いものではない。

 

でも、ふと考えてしまった。

もしも、当時の状況が、今のコロナ禍のような状況だったら、どうだったろう?
もしも、授業がオンライン授業だったら?……と。

 

 

きっと、今の会話は生まれていないのではないだろうか。

 

オンライン授業は、時間や場所の制約から解き放たれて、最短距離で、自分の求めるものを手にすることが出来る。
そんな強力なツールではあるが、だからこその欠点もある。

 

無駄がなさ過ぎるのだ。

 

オンライン授業では、雑談=無駄なものとして、ひかえられるだろうし、そもそも雑談は、そのクラスごとの持つ空気感があってこそ。
学びを養う会話の種が育つ土壌とは言いがたい。

また、授業への参加もURLをクリックするだけ。
通う時間も無く、授業の開始時間まで何をしていても自由。
時間に一切の無駄がないばかりか、体力の消耗や送り迎えなどの労力も0。
様々な利点が、次から次へとあふれてくる。

 

これでいいじゃん!!

 

となるが、失うものにも焦点を当ててもらいたい。

無駄がないからこそ、得られないものもある。
そして、これが案外バカに出来ないものだったりする。

 

通塾時の景色。
教室に入るまでに目に入ってくる何気ない情報や会話。
授業が始まるまでの時間で手にする本。
最新のニュースについて話し合ったり、いろいろな考え方に気付く瞬間。

 

そんな、名も無き時間が一切なくなってしまう。

 

この時間が失われてしまうのは、非常に損だと思う。

もちろん、この時間のために費用を払っているわけではない、と言われてしまえばそれまでだが、この「名も無き時間」は生徒達にとっての心の豊かさにつながっているような気がしてならない。

 

そして、この時間にこそ出会えるものがある。

 

それが「偶然」だ。

 

無駄のない効率的なものからは、なかなか生まれてこない。

初めて降りる駅で、いろいろと歩きまわっているうちに、どこからか美味しいにおいがする。

あ、こんなところにお店があったんだ!入ってみようかな?

 

口コミ評価サイトを元に、迷うことなく目的地に一直線では、こんな経験出来ないだろうと思う。

 

また、科学の研究では、偶然や間違えが、歴史的な発見に結びついていることが多いものだ。
研究だけではなく、コカ・コーラなどの商品開発や、画期的なサービスも、ひょんなことから一気にアイディアが形をなすことがある。

 

偶然が持つ高揚感。
偶然が引き起こす奇跡。
偶然を失う怖さ、寂しさ。

 

我々は、すべて知っているはずだ。

 

 

一日でも早く、偶然に満ちあふれた生活を、取り戻せる日が来ることを願っている。