「からかう」ということ

子どもたちが「ふざけあう」のを、たまに見かける。
きっかけは、ごくごく「ささいなこと」

子供たちの「だれか」が「ちょっかい」という口火を切る。
するとたちまち、「じゃれあい」が始まる。
「ことば」の時もあれば、
「手出し」の時もある。
「ふたり」のときもあれば、
「多数」のときもある。

「じゃれあい」は、得てして「度を越える」。
そして、「こいつ、弱いぞ。」
この「優越感」が、一方の子供の心に、
入道雲のようにもくもくと湧き上がる。
やがて、立場の強さを感じた子供が他方の子供を「からかい」始める。

「からかい」…
まさに、この言動から「いじめ」は始まると言っても過言ではない。

「ふざけあい」と「からかい」。

「ふざけあい」が「ふざけあい」で終始するのは問題ない。
なぜなら、子供同士が「対等」だから。

でも、「からかい」は違う。
「からかい」には、
相手を下に見下げ、「上下関係」を産み出す「種」が包含されているのだ。
だから、
ひとたび「からかい」始めれば、
「種」は芽生え、葉を伸ばし、相手につるを巻き付ける。

でも、
からかっている子供には「いじめ」の自覚はない。
相手の「つらさ」や「がまん」に気づかない。
なぜなら、「ふざけあい」だと思い続けているから。

「いじめられる方にも原因はある」
こんな声を子供だけではなく、大人からも耳にすることがある。
確かに「原因」はあるだろう。
でも、
「原因」の有無と「善悪」は、まったくの別物である。
「いじめ」は100%「いじめる側」が「悪い」。
なぜなら、「命」の価値に「差」を産み出すから。

では、我々「大人」がなすべきことは何?
それは、
「からかわれている」相手がいることを認識させ続けること
「からかわれている」相手は、「痛み」を心身に感じていることを想像させ続けること。
要するに、
「からかい」が、
「いじめ」の萌芽になっていることに「気づかせてやる」。
そんな声掛けを怠らないことなのだろう。

逆に言えば、
そんな声掛けを怠らないのが「大人」と呼べるのかもしれない。

甘くないカレーを食べながら、そう思った。