大学4年生の6月、僕は教育実習生として母校の教壇に立つことになった。
教育実習生でも教壇に立つ以上、先生である。
僕の担当教科は「世界史」。
大学1年の時から塾講師の仕事(アルバイト)をしていたこともあって、
マウンド度胸ならぬ教壇度胸はあったと思うが、
この授業準備には、苦い思い出がある。
実習生が授業をする際には、
指導教員(本来その時間の授業を担当している先生)に、どんな授業をするかの
学習指導案というものを書いて見せなければならないのだが、
実習前日にその指導案を見てもらったら、ものの数秒で却下された。
そしてそのまま図書室に連れて行かれ、
そこでパッパッと計7冊の本を見繕って手渡された。
厚さは文庫本ほどのものから、百科事典のようなものまで。
その時は多くを語ってもらえなかったのだが、
とても恥ずかしい思いをしたのをおぼえている。
僕のした準備は、教科書と資料集と、大学受験時に使った参考書、
それとせいぜいインターネットを参考にした程度だったから、
「底が浅い!」と暗に言われたのがわかったからである。
それにしても翌日までに7冊。
多分、この実習期間は中学受験や大学受験の時より真剣に勉強した(笑)。
この時、恥ずかしいと思う気持ちは、勉強する強い動機になるのを知った。
集中し過ぎていたからか、何をどうやったか全くおぼえていないが、
とにかく翌日に指導案を見てもらったら、
「ほぅ。ここまでできるか。」と言ってもらえた。
実際教壇に立って授業をした時、2日前のイメージにはなかった
奥行きが出たことを自分でも感じた。
そして、自分が学生だった頃には気づけなかった先生の「凄さ」を知った。
この時は、先生に本をピックアップしてもらったから、
実際のところは、これは僕の力によるものではない。
本当に貴重なきっかけをいただいた。
先生という仕事に就けたのは、間違いなくこの先生がいたからである。
教わりたいこと、話したいこともまだたくさんあったが、
残念ながら、この先生は若くしてこの世を去ってしまった。
9月に出た「新しい道徳」北野武著 (幻冬舎) の中に こう書かれていた。
『たしかに最近は、ネットで調べれば、たいていのことが「わかる」ようになった。
俺だって、そういうものを使わないとはいわない。
百科事典に書いてあるのと、たいして変わらない答えしか出てこないけれど、
簡単にそれなりの知識は得られる。知ったかぶりくらいはできるようになる。
便利にはなったかもしれないが、ただそれだけのことだ。
ひとつの知識を本物の知識にするためには、何冊も本を読まなくてはいけない。
それは今も昔も変わらない。
インターネットで手軽に知識を得ることはできても、
手軽に得られるのは手軽な知識でしかない。ハリボテの知識だ。
知ったかぶりが増えただけのことだろう。』
苦い記憶と共に、感謝の気持ちと「頑張らねば」という気持ちを思い出させられた。