昨日のブログ「ふたつのかなしみ」は、文庫本の類で読んだのではなく、
ある中学校の入試問題として出題されていたのを偶然目にして読んだ。
家庭教師の時だった。
生徒が問題を解いている間に一緒にその場で問題を解くのだが、
答えを出すだけではなく、それをわかりやすく解説しなくてはいけないから、
(子どもにもわかるように)論理的に精読しなくてはならない。
しかし実は、問題を解くどころじゃない。
仕事で生徒宅に来ているのに、溢れてくる感情がそのままこぼれてしまいそうで、
論理的に読むことが難しい。高ぶってしまった心では、
その後の問いが普段以上に冷静で、客観的で、無機質なものに感じられ、
何だか白けてしまうから読みたくないとまで思う。
だがむしろ気持ちをクールダウンさせるためには、
その問いを敢えて読んだ方がいいと思い直して、問題を解いているうちに
段々と仕事モードに戻っていった。
(本当はこの後、読み聞かせたり音読させたりしたので、再度マズイ状況になった)
どんな文章がその人の琴線に触れるかは、人それぞれなので、
押しつける気などサラサラない。
好みの音楽、好みの映画が人それぞれのように、
読書も人それぞれ好きなものを読めばいいと思う。
ただ一方で、本を読まない子、読書嫌いの子の中に、
そういった心のアンテナが鈍いせいで本を読めない子がいるような気がしてきた。
文字媒体が苦手。
読むのがめんどくさい。
わかりやすく簡潔に解説して欲しい。
映像や漫画がついていれば…
というのが本を読まない理由ならまだわかる。
だが最近はそれ以前の問題もあるような気がするのである。
乱暴に言えば、
「どう感じていいかわからない。」
「特に何とも思わない。」
どれも『普通』でしかない。
これでは「没頭する」ことはできないと思う。
本が好きな人はグイグイ本の中に引き込まれた経験を
何度もしているから読むのが楽しい。
同じ作家の本を全巻読破してやろう!とか、
国語のテキストに載っていた文章の続きを読みたい!とか
思った経験のある人にとっては、ジャンルの偏りはあったとしても
読書は楽しいものである。
ストレス発散したい時には、無駄に爆発するようなハリウッドに限る。
泣きたい時は…、癒されたい時は…と、状況に応じて映画を使い分ける。
映画館で観た時に感動して号泣した映画だったとしても、
観た後にドッと疲れるからテレビで放送していても敢えて観ない。
そういった工夫をする。
でもそれは没頭した後の疲れを知っているからできることなのだと思う。
かつては喜怒哀楽の感情や好き嫌いの感情は自然と身に着くものだと思っていたが、
どうやら少し意識して身につけさせなければならないようだ。