現役で東大の文1(法学部)に入った高校の同期は、
目立つようなタイプではなかったが、とても優秀な人だった。
周囲からも未来を嘱望(しょくぼう)されていたし、
自分でもこれからの人生に夢を膨らませていたのではないだろうか。
しかし彼は、東大生活を満喫する間もなく亡くなってしまった。
取りたての免許で車を運転していて事故にあったのだという。
あまりにもあっけないことで、信じられないというか
全く事実を受け入れられず、涙も出なかった。
僕は母方の祖父母にとてもかわいがられて育った。
特におじいちゃんっ子と言えるくらい祖父には大事にされたし、
僕もおじいちゃんが大好きだった。
その祖父は僕が中学受験をする秋に亡くなった。
愛煙家だった祖父は幼い僕に隠れてタバコを吸っていて、
僕は祖父を探し出しては
「またおじいちゃん、タバコ吸ってる!」とそれを責めた。
祖父も本数を減らそうと努力はしていたようだが、
結局肺ガンから心筋梗塞を患って亡くなってしまった。
母方の実家は長崎だったので僕はお葬式にも出られていないが、
悲しくて悲しくてずっと泣いていた。
僕がタバコを一生吸わないと決意した時はこの時である。
また祖母のことも大好きだった。僕のうなじはその祖母そっくりだそうである。
その祖母は僕が大学生になるまで生きたのだが、
ある年の正月のことである。
新年の挨拶電話がかかってきた。母が祖母とひとしきり話した後、
「スナフキンは?」と言われたそうだが、僕はその電話に出なかった。
別に大して忙しかったわけでもないのに、
その時なぜかその電話を代わってもらわなかった。
その数日後に祖母はひっそりと息を引き取った。
死に顔は安らかで幸せそうだったというが、
僕は自分をめちゃくちゃに壊してしまいたいくらいに後悔した。
後悔なんていう言葉では表せないくらいの後悔である。
なんであの時電話に出なかったんだろう。
一言話しておけばよかった。声を聞いていたらよかった。
幸せそうに(苦しまずに)亡くなったのは幸いだったのでは…と、
親戚中ではそういう話になっていたが、
僕だけは今でも心に重いものが引っかかったような感じでいる。
自分にとって大切な人が、ある時突然いなくなってしまうことはありえる。
今回の大地震の状況がテレビで流れるたびに、胸が潰れるような気持ちになる。
お笑い番組がはやって久しいが、昔よりもお笑い番組や漫画など、
多くの場面で「死ね!」という言葉が使われるようになった。
『死』という言葉の価値が変わってしまったのかもしれない。
当然『生』とか『命』の価値も下げられてしまったのだと思う。
どちらが先なのかはわからないが、これではいけない。
大切な人を失った時の悲しみは、失った人にしかわからない。
死は誰にでも訪れるのだから、その悲しみさえも笑って吹き飛ばそう!
という考え方もあるのかもしれないが、それならそれで、
少なくとも生きている間に感謝の気持ちを持ちたいし、伝えたいと思う。
くさい言葉に聞こえるかもしれないが、
縁のあったご家族に、そして当然みんなにも感謝している。
ありがとう。本当にありがとう。