もう10年ほど前に目にした文章で、
自分が気に入って残していた田口静香さんの文章を紹介いたします。
スナック菓子を食べながら、通りがかった女の子二人組の一人が
「この町に住んでるのって恥ずかしくない?」と尻上がりに問い、
もう一方が「あはは」と応じた。
表現力も心根もあまりに浅薄で
思わず「恥ずかしいのは、歩きながら物を食べてるその姿でしょ」と
口の中で言い返した。
自分の住んでいる町は、この町より交通の便や、買い物の便がよい。
この町のあなたは恥ずかしいでしょということだろう。
表現力の貧しさと思考力の浅さは比例する。
さらに思考力の浅さは品性の低さに繋がっている、と私は思う。
近頃、「チョー」や「ビミョー」の世界に住むボキャ貧族が急増中である。
子どもや若者世代だけでなく、中年世代にまで感染が広がっている。
原因の筆頭は読書の量と質の低下によるものだろう。
良質の本を大量に読むことで、語彙が豊富になる。
様々な表現ができるようになる。
いろいろな視点から柔軟な発想をすることができるようになる。
自分と違う物の見方考え方があることを知る。
立場上年齢による違いを理解する。時代も国境も容易に越えることができる。
自分以外の人生を疑似体験することができる。
本を読む人と読まない人には、社会観、人生観の豊かさに違いがでてくる。
「チョーきれいなバラ」を「手のひらほどの花首を荘厳に持ち上げ、
芳香をあたり一面に漂わせる深紅のバラ」
と言い換えるのは、多少の手間がかかるが、
どちらに味わいがあるかは、言わずもがなである。
言い換えができるか、あるいは、レベルの高い表現ができるかは、
日頃読んでいる本の質と量によって違ってくる。
ひらがなやカタカナで書かれた本を読み続けると、
話し言葉はひらがなやカタカナばかりになる。
古典を読み込むと、奥の深い精神世界ができあがってくる。
(中略)
「恥ずかしい」は、
面白くない
きまりが悪い
気後れするである。
自分だけ跳び箱が飛べなかった。気づかずに裏返しのシャツを着ていた。
公衆の前でころんでしまった。いずれも恥ずかしい、身の縮む思いである。
万人が共感するとは限らない「恥ずかしい」も増えてきた。
電車の中で化粧をする。
コンビニエンスストアの駐車場にしゃがみこんで物を食べる。
ゴミやタバコのポイ捨てをする。列に割り込む。
他人の目から見ても恥ずかしい行為だが、
容認、あるいは黙認されることが多くなってきた。
本を読まないことによって、こう生きるべき、という概念や規範をもたない。
その言動がどういう意味をもつのか考えられない。
精神が鍛えられていないから、自分のいい加減さを正そうと努力をしない。
「恥ずかしい」の本意は、あるべき姿が見えない、
見ようとしない自分自身の生き方の中にあるのではないだろうか。
質の良い本をたくさん読む。
多少不快な思いをするのを覚悟で、言葉を尽して語り合う。
手間とリスクを惜しまず、表現力を磨き、思考力を深め、品性を高めていこう。
相応の精神年齢を手に入れよう。