「先生!ウチの子の『ヤル気スイッチ』は、どこにあるのかしら?」
と、聞かれて、
「あぁ、もう接触不良で押せないみたいです!」とか、
「最初からその機能は搭載されていないです!」などと
冗談を言えるならいいが、なかなかそういうわけにもいかない。
しかし、そもそもで言うと、そのスイッチは誰かに押してもらうものではなくて、
自分自身で押すものなのだと思う。
そのスイッチを自ら押すタイミングというのは、
自分にとって何かしらのきっかけがあった時であるのは間違いないと思うのだが、
しかし、そのきっかけは、特別なことがあった時とも限らない。
ありふれた日常の中にも、そのきっかけはあるし、
そのきっかけに気づけた時を、人はチャンスと呼ぶんじゃないかと思う。
くっだらないたとえ話をする。
大好きな芸能人が、自分の右側を通り過ぎる瞬間があったとする。
芸能人は芸能人で、一般人に見つからないように、
マスクをし、サングラスもかけて気配を殺しているが、
なにせ自分にとっては、大好きな芸能人なのである。
ちょっとでも右側に気を払っていれば、それに気づけたとする。
そういうタイミングで、左側で誰かが「ブッ」と、おならをしたとする。
するとどうだろう。「え?なに!?」と、左側に気を取られる。
これで、大好きな芸能人と出会えるチャンスをみすみす逃す。
改めて謝らないといけないレベルのくっだらないたとえ話をしたが、
チャンスって案外こういうことかもしれないなと思う。
もし、歩きスマホをしていたとしたら、今回のチャンスには気付けない。
音楽を聴いていて、それに集中していてもおそらく気付けないかな。
考え事をしていても、ボォっとしていても、お友達とお喋りしていても…
つまり、アンテナを張っていないと気づけない可能性が高いってことだ。
さらに別の角度から付け加えたい。
こういうチャンスは、本人が気づかないだけで、実は至るところにあって、
ひょっとしたら今日だってそのチャンスと出会っていたかもしれないのだが、
ということは、同様に、
今日は自分以外の誰かにとってのチャンスでもあったかもしれない。
そういう意味では、先ほどの例でいうと、「ブッ」とやった人物は、
人のチャンスをつぶしたと言ってもいいと思う。
人にチャンスを逃させるような人にはなって欲しくない。
一生懸命勉強している人のそばで、平気でお喋りできてしまう感性では困る。
さすがにお喋りはしないとしても、時間を計ってテストを解いている子のそばで、
音読をしたり、大きな声で質問したりするのも、良いことではないよね。
また、高い目標を持って、ストイックに頑張っている子なら、
テストで1問ミスしただけでも内心ものすごく悔しがっている。
その時、「1問しか間違えないなんてすごいね!」とか、
「頭良くていいね!」などと言われても、その子は全く嬉しくない。
次は絶対に間違えない!というその子の決心に水を差すだけである。
自分は自分のことに集中する。
そして、自分さえよければではなくて、隣で頑張っている人のことも大切にする。
そうあって欲しい。