僕は(人から)「ポジティブ」だと言われる。
ポジティブを日本語にする時は、楽観的と訳すこともあるが、
果たして僕は楽観的なのだろうか。
ある人(麻布OB)のブログに、以下のような考察があった。
『楽観主義者は半分だけ水が入ったコップを見て、「半分も入っている」と言う。
悲観主義者は同じコップを見て、「半分しか入っていない」と述べる。
(中略)
楽観主義者というものは、大前提として、
何もしないで自分にコップいっぱいの水が与えられるなど期待していない。
自分に与えられるのは空っぽのコップだと思っているからこそ、
半分だけ水の入ったコップを見て「半分も入っている。ラッキー」と思うのだ。
それに対し悲観主義者はどうか。
悲観主義者は、世の中というものは自分にコップいっぱいの水を
与えてくれて当たり前だと思っている。
(中略)
自分には無条件でコップいっぱいの水が与えられて当然と期待しているからこそ、
「半分しか入っていない」と憤るのだ。
(中略)
そんなわけで、常々ぼくは
「楽観主義者は悲観的で、悲観主義者は楽観的だ」と思っているのだが、(後略)』
この考察は面白いと思う。
楽観主義者は悲観的で、常にそこには諦めがある。
悲観主義者は楽観的で、常にそこには期待がある。
例えば、今回の漢字テストの範囲は第5回だったのに、
間違えて第6回を勉強してきてしまったことが、テスト30分前にわかった時、
楽観的な子は、「ヤベェ!」とは思うものの、
「テストが始まるまでに気づけて、まだよかった。」
「合格はしないかもしれないけれど、できるところだけでもやろう!」
と、こうなる。
一方、悲観的な子は、「もうダメだ。」「間に合わない。」に続けて、
「誰かが第6回って言ってたはずだ」「本当は第6回なんじゃないか?」または、
どうにか「テストを免除してもらえないか。」「合格点を下げてもらえないか。」
と、こういう発想になる。
ウダウダ言ってないで、さっさとやることやろうぜ!
って思う僕は、きっと楽観的なのだろう。