村上春樹の新作が間もなく刊行される。
題名は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。
何とも長いタイトルである。
私は村上春樹の愛読者ではないので、彼の著作は
『ノルウェイの森』や『1Q84』のような国民図書級の単行本にしか触れていない。
本にも旬というものがあるのか、
読み時を逸すると捕まえることがはなはだ難しくなる。
村上春樹のような人気作家は、いつでもどこでも目にすることが可能だ。
だが、皮肉なことにその可能性が高くなればなるほど
手にする現実性から遠のいていく。
天邪鬼(あまのじゃく)な性格の持ち主であればなおさらであろう。
なのに何故あえてここで「村上春樹」?
答えはずばり、その「タイトル」にある。
(「なーんだ。そんなことか。村上ファンでなくても誰でも知ってるに
決まってるでしょ!」、ですって?まあまあお待ち下さい。)
それは、長さではなく(きっと長くせざるを得ない「意味」があるのでしょう)、
その「キーワード」に直感が蠢(うごめ)いてしまったことに起因する。
私は、「巡礼の年」でも「多崎つくる」でもなく、
「色彩を持たない」という修飾語を何の疑いも持たずに
「キーワード」と決め込んでしまったのだ。
「色彩を持たない」=「ムィシュキン公爵」という等式が
唐突に脳髄の奥から脳全体を満たす。
途端、体全体にしびれが走った。
もしかして、新作は『白痴』の続編なのではないか?
「ムィシュキン公爵」とは、ロシア作家であるドストエフスキーの
五大長編の1つである『白痴』の主人公である。
もし仮に「多崎つくる」が現代のムィシュキン公爵であれば、
日本版ムィシュキンは他者とどのように関わり
(否、ムィシュキンであれば「関わり」という表現は不適切なのかも知れないが)
ながら、彼の巡礼の年を迎えるのだろうか。
日本版ナスターシャは、アグラーヤは、ロゴージンは登場するのだろうか?
また、巡礼とは、聖地を巡るという宗教的行為である。
このことを考えると、
「色彩を持たない」多崎たつる「が」彼の地へ向けて遍歴の旅路につくのか、
それとも、
「色彩を持たない」多崎たつる「を」、色彩を「持つ」欲望に満ちた他者が巡るのか、
聖地という中心点の描かれ方が非常に気になる。
個人的ではあるが、山本周五郎が終生心に留めたという、ストリンドベリの
『苦しみつつ なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である』という金言
にある「巡礼」とは決して相容れないような気はする。
さて、ことのほか待ち遠しいのは、新作の「書き出し」である。
「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」
『ノルウェーの森』の書き出しである。
「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。
曲はヤナーチェックのシンフォニエッタ。」
『1Q84』のそれである。
『ノルウェーの森』の冒頭で主人公は国際線の機内に、
『1Q84』ではタクシーで高速道路上にいる。
では、新作の冒頭で主人公はどこにいるのか。
私は超主観であるが、「鉄道」であってほしいと願っている。
シベリア鉄道でもいいし、廃線間近のローカル線でもいい。
理由はここでは言わないことにする。
しかし、これだけは言いたい。
読む前からこれだけの想像力をかきたててくれて、
かなりの確率でこの想像を破壊するであろう村上春樹とは
とてつもなく偉大な作家のだということだけは…。