世の中は 限りなく 広く 深いものでした

世の中は 限りなく 広く 深いものでした。

人間の力は 限りなく 高く 強いものでした。

そして 人と人の出会いは 限りなく かけがえがなく 尊いものでした。

藤野高明氏は福岡で生まれ

昭和21年 小学校2年の時 河原で不発弾とは知らず拾い持ち帰り

釘を刺したところ爆発しました。

一瞬にして 自身の両手 両眼の光が奪われ

側にいた弟の命も奪われました。

その後 両親は盲学校に入学させようとしましたが

当時の盲学校は両手がなければ 点字が読めないし

教育を受けても マッサージや鍼灸ができないという理由で

受け入れを拒否されました。

それから二十歳になるまでの13年間 日数にすると4千数百日を

公的教育から切り離されて 家ですごしました。

開眼手術で入院中 彼を不憫に思った18歳の看護師Kさんが

勤務時間外にいろいろな本を読んでくれました。

その中で 視力ばかりか手指を失っても

唇や舌先で点字を読む人がいることを知りました。

「最初は紙に唇をあててもただザラザラ感じるだけだった。

練習を重ねると 文を拾い 文字が連なって言葉になり

文章となって 理解できるようになる。」

藤野氏は言われる。

「継続は力でした。」

「文字の獲得は光の獲得でした。」

かろうじて残った両腕で点筆を挟み 点字版にぽつぽつと穴をうがっていく。

「長い時間かけても 文章で自分のことを表現できることのは喜びだった。」

それから藤野氏は 猛然と学習意欲を燃やし

二十歳で大阪の盲学校の中学2年クラスに入り

やがて日大通信教育学部に入学 32歳で卒業 教員免許取得

盲学校の教師となり30年勤務しました。

藤野氏は どんな厚い壁があっても挫けず 諦めず 粘り強く挑戦し続けました。

絶望したり 嘆くことは知りませんでした。

人生から 何かを恵んでもらうという受身の生き方ではなく

不屈の精神を持って 毎日毎日 精一杯の行為によって

自分の人生を作っていく生き方は 深い感動なしには触れられません。

藤野氏は言われる。

「障害を受け入れて生きるのは それほどたやすくはない。

私はうつうつとよく思った。

たとえ片方の目でも 手でも残っていたら どんなにいいだろうと。」

「私は ときどき妻や友人とコンサートに出掛ける。

・・・その曲が終焉を迎え 一瞬の静寂を突き崩すように

万雷の拍手がホールに満ちる。

私はその瞬時 嵐のような拍手に加わることのできない左右の手を意識してしまう。

ほとんど口にすることのなかった悲しみが心に沸きあがってくる。

それでも 私は心を潤すあの音楽の充足感を求めて 演奏会に出掛けていく。」