中学受験が終わり早2週間が過ぎようとしている。
中学準備のための英数講座も始まり、受験の緊張感も薄れる…
というよりも雲散霧消してしまったかのようなありふれた日常が展開している。
受験を終えたみんなの表情を見ると、その大半は緩みきっているのであるが、
中にはおやっと思わせる大人の表情も見受けられる。
原っぱで四葉のクローバーを見つけ出した時のような新鮮な喜び。
暦の上では春をとうに過ぎているが、寒さは思いのほか募り、
一歩外へと足を踏み出すと身が引きしまらざるを得ない。
つまり肉体が内側へとベクトルを向けるのであるが、
みんなの表情は相反し、堅い蕾が一気にほころび世界に向けて開花している。
まあ、緩みはエネルギー爆発の起爆剤と好意的に解釈しておこう。
そんなみんなも間もなく新たなステップに足をかける。
誰しもが通過する階段なのだが、案外初めの一歩が踏み出しにくい、
脆く崩れやすい足場になっている。
誰が作ったのか、はた迷惑なものだ。
何しろ板が薄すぎる。
しかもギシギシと軋む音が辺りかまわず轟きわたる。
しかし、君は一歩目を踏み出さなければ先には進めない。
最早後ろはない。前進するしかない。
それなのに、決して頑丈さは君には与えらえない。
さあ君よ、どうする!
君は今恐れにおののいている。
持ち上げた片足を着地させるのにためらいを覚えている。
でも君よ、その足を思い切り振りおろし、堂々と闊歩するしかないのだ。
一歩一歩着実に、足裏で大地の躍動を感じ取っていくしかないのだ。
空を見上げて些事を蹴散らす雄大な心を押し広げるしかないのだ。
努力が報われないことがある。友人に誤解されることもある。
漱石の『草枕』の冒頭に涙することもあるかも知れない。
それでも君よ!すべてに意味がある。人生には無駄はない。
「我以外皆我が師」という言葉がある。
嬉しいことも楽しいことも、辛いことも悲しいことも全ては君の先生。
君を鍛え、幸せに導いてくれるための忠言のようなものだと思えばいい。
どこまでも楽観主義で、学びの心で世界に向かって自分自身を開いていけば
絶対に己を見失うことはない。
なぜなら、確固とした師をもつ人間は屈強だから。
この文章を書きながらふと思った。誰を念頭においているのだろう?
そして、思案しているうちに改めて実感した。
ものすごい勢いでみんなとの思い出を一人の漏れもなく
「パラパラ漫画」のように脳裏に映し出している自分がいるということを。
そして、共に作りあげてきた各々のかけがえのない記憶が
「みんな」の一言に集約し、文章を書き進める原動力となっていることを。
出会えて良かったと心より思える。こんな素朴な一文で終わりたいと思う。