ところで、この国語の授業の際、矢ガモ事件の話からこんな話に発展していました。
何だと思いますか?
それは、
「力の強いものが弱いものを力で攻撃するのはいけないことで、卑怯なことだ」
と、こういう話です。
よく、お兄ちゃんが弟と喧嘩したときなんかには、「お兄ちゃんなんだから!」と、
お兄ちゃんばかりが叱られることってありますね。
お兄ちゃんにとっては、納得いかないときもあるでしょう。
でも、お兄ちゃんと弟では力が違う。できることが違う。だから、
「力の強いものは弱いものを守るべきで、力で押さえつけるのはダメなんだ」
と、こういう理由で叱られるのです。
そして、「だから男の子が女の子に暴力を振るうのも同じようにダメなんだ」
と、こんな話になっていました。
予習シリーズの本文と直接的に関係ある話ではありません。
問題を解くのに役立つわけでもありません。
受験塾では、「問題を解けるようにしてくれればそれだけでいい!」
とお考えの人とは相容れない授業かもしれませんが、
サーパスは、心の成長、人間としての成長なくして、学力の成長もないと考えています。
冒頭の話で、国語の読解力が上がることはないかもしれません。
しかし、相手が人間でなくて動物であったとしても、「弱いものイジメは卑怯なんだ」
「お母さんやお父さんに(兄である)僕ばっかり叱られるのは、
僕が嫌われていて弟が大事にされているのではなくて、理由があったんだ!」
と、こんなことを考えてくれたり、話がじんわりと心に染み込んでくれたりすれば、
(イの答えに◯がつくよりも)それ自体に価値があると思うのです。
この話を「聞いた」ことで、別の文章に応用が効くということもあるかもしれませんが、
一方で、「聞く」ことを、問題を解けるようにするための手段としてしか捉えないなら、
なんだか物寂しいというか、残念な気持ちになります。
話を「聞く」ことで、自分とは違う他人の考え方に触れることができます。
それによって自分の考えを、より洗練させていくこともできるかもしれませんし、
知らなかったこと、見えていなかったものが見えるようになるかもしれません。
人の話を「聞ける」ようになれば、良いことづくしだと思いませんか?