サーパスでは、(各学年)年5回、父母会を実施するが、
その会では、私も何かしらの話をする機会を与えられている。
そこで必ず伝えなければならない内容(情報)については、
あらかじめ決まっているが、
その話し方、伝え方については、そのときどきで臨機応変に変えている。
例えば、普段父母会に参加できない方が、それこそ初めて来られたようなときは、
前回や前々回の父母会でお話しした内容と同じ話をすることもあるし、
(子どもが潰れてしまいそうなくらい)
気合いの入りすぎている保護者の方が来られている場合には、
危機感をそれ以上煽らないよう、ソフトな話し方を心がける。
また、お母さんだけが参加されている父母会と、お父さんの参加がある父母会とでは、
紹介する具体例や、話の展開、あるいは表現方法を変える。
大人数相手の会よりも、面談の方がイメージしやすいかもしれない。
サーパスでは、個人面談も同じくらいの回数おこなっているが、
そこにお母さんだけが来られるのと、お父さんだけが来られるのと、
ご両親揃って来られるのとでは、
その面談の空気が違うし、求められていることも違ったりする。
お父さんやお母さんも、取引先、あるいは上司や部下に何かを伝えるとき、
伝える相手によって、伝え方を変えているはずだ。
それで、サーパスでは、こういったことを授業においても大切にしている。
クラスの上下や学年によって、使う言葉や説明を変えるのはもちろんのこと、
一年前の6年生上位クラスと、今年の6年生上位クラスとのような場合でも、
説明に使う言葉や例題の質は変えるし、授業の構成を変えたりする。
つまり、授業も、相手あってのことであるという当たり前の話なのだが、
塾によっては、というより、多くの塾では、教え方がマニュアルで決まっていて、
どこのページから始めてどこのページまでやるかも決まっている。
極端な話、生徒の大多数が授業についてきていないとしても関係ない。
淡々と、粛々と、あるいはノリでごまかして、規定のページまで授業を進める。
範囲が終わっていないと、週末のクラス替えテストで不公平感が出てしまう。
生徒が理解しているかどうかよりも、テスト範囲までを教え終わった
という事実が大事なのである。
そして、その既成事実作りが過度に大事になってしまった結果、
生徒の理解度など気にもしない授業、
(気にしないうちに、気づけなくなる)
ついてこられる子だけを対象にした授業をするようになる。
ついてきている生徒とだけ目を合わせ、コミュニケーションを取るから、
「今日も良い授業をした」と自己陶酔するようになる。
だから、週末のテストで点数を取れない生徒がいても、そこには責任を感じない。
点数を取れないのは、生徒か、そのご家庭の頑張り不足のせいになる。