お箸の持ち方や、ハサミの手渡し方など、
生きていく上で、身に着けておくべきものがある。
こういったことについては、子どもが
「そんなのはどうだっていい。メンドクサイ。」と反発したとしても、
それをできるようにさせるのが親や大人の務めであると思う。
このように、本人が望む望まぬにかかわらず、
できるようにさせるというのが、教育の1つの目的である。
すなわち、教育の一側面は『強制』することである。
そして、『強制』するには『管理』するのが手っ取り早い。
他方、自ら学ぼうとする『自主性』を育むのも教育の目的である。
しかし、この『自主性』は、『管理』『強制』をどこかで止めないと育たない。
どこかのタイミングで、子ども自身に任せることが必要になる。
最初はおそらく失敗するだろう。何度も何度も失敗を繰り返すかもしれない。
親は、見ていて歯がゆい思いをするにちがいない。
だが、失敗も込みで、目先の結果ばかりを追わず「見守る」姿勢が必要だ。
これは、子どものことを信頼していないとできない。
さて、これら両方が必要であることについては、
おそらく多くの方の賛同を得られるに違いない。
だが、多くの御家庭で、そう理想通りにはいかない。
その理由の一つとして、近頃は、親が忙し過ぎている。
いまや中学受験において、共働き家庭は全く珍しくなく、
サーパスにおいては、共働きのご家庭の方が多いくらいだが、
その忙しくしている親が、仕事からようやく解放された時間に、
家事をやって、あれもやってこれもやって、
さらには子どもの成績までを何とかしようとする。そういう場合に、
まぁ、大人は(仕事等で)そういう場面には何度も遭遇しているのだが、
何度も遭遇していて慣れているからこそ、
いつものように、効率よく(を無意識にイメージして)行動してしまう。
だが、それが、大袈裟に言えば、悲劇の始まりである。
なぜなら、教育には「待つ」「見守る」という、
効率とは対極にある、時間と心の『ゆとり』が必要であるからだ。
にもかかわらず効率を求めてしまうと、
思った通りに進まない状況にイライラして、心無い言動をとってしまう。
もう少し具体的にいうと、
結果を出させるために、親は勉強スケジュールを『管理』しようとし、
とはいえ、全てを管理できるほどの時間と余裕が親の方に無いから、
親の不在時には自分で勉強を進めておくように指示をする。
そして、その指示したことは、
子どもの責任において遂行しなければならないタスクのように捉える。
しかし、社会人とは違い、子どもは責任など負ったつもりがないから、
親が期待するほどには勉強を進めていない。こうして、親子バトルが始まり、
やがて、ウチの子には「ヤル気がない」「自主性が無い」という評をくだす。
だが、これはそもそも『管理』から始まったものであって、
親の不在時に勉強を進めていたとしても、
それは『自主性』と呼べるほどのものではない。